三 小夜(1)

 あの、と切り出したナターシュに、コーティは事情を聞くことさえせず、すべてわたくしにお任せください、と胸を叩いた。

 そして言葉通り、普段使いのものとは明らかに質の違う香油と透ける絹の夜着を調達してきて、湯上がりのあるじを準備万端に整えた。ナターシュはといえば、鏡に映る自分が見たこともないほど艶めいてゆくさまを見つめながら、薔薇茶で驚きを飲み込むことしかできない。

 いまだ復興にはほど遠いというのに、こんなものをどこから? 疑問はすぐに氷解した。コーティはいつか来るであろうこの日のために、恐らくはずっと前から用意していたのだ。ナターシュがどこかの殿方に嫁ぐとき、それがどんな日、どんな時であっても、万一にも恥をかくことのないよう、完璧な状態で送り出せるように。口を開けば嗚咽がこぼれそうで、感謝も労いも、いちように飲み込むしかなかった。

 月の光が煌々と落ちる夜だった。

 エドワルドは悪趣味なことにカーテンを開け放っていたため、薄絹を透かして全部見えてしまうのではないかと気が気ではない。手招かれてなお躊躇していると、容赦なく攫われた。焦れたような、食い破るような口づけに、呼吸さえままならず喉が鳴る。

 シャナハが早く替われ早く替われとせっつくが、どうしてか譲る気持ちにはなれなかった。


「本当ならば、おれが訪ねて行くんだがな」


 いま寝起きしている使用人部屋は当然ながら、殿方を招き入れるつくりではない。コーティは今夜、屋敷に下がっている。仕方ありません、と答えると、何がおかしいのか肩を揺らした。


「コーティはどこでこんな技術を身につけたんだろうな」


 見違えた、いつもとは全然違う。低い声が絹地を滑り落ちてゆく。きれいだ、と囁きだけが耳をなぶって、肩と背中を強張らせた。何をされているわけでもなく、夜着越しに見つめられ、手のひらを撫でられているだけなのに、はち切れそうだ。どことも知れぬ場所がずきずきと疼いて苦しい。

 エドワルドさま。呼びかけは全部絡め取られ、うやむやのままにあたたかく湿った唇で塞がれてしまう。シャナハがすすり泣く。視線も、手指も、吐息も、何もかもが熱くて、ひとつに溶けてしまいそうだった。それを望む気持ちと恥じらいと、シャナハの懇願が混じり合って、けれどどうすればいいのかわからずに、涙をこらえてエドワルドに縋る。

 教師が語った閨での作法は、王族のつとめとしてただただ覚えて実践し、耐えるべきものとしか思えなかった。

 従順であれ、夫君に逆らわず身を任すべしと説いた厳格な老女は、喜びにさんざめく全身をどう手なずければ良いか、迸る愉悦の声をどう抑えれば良いか、ふつふつと沸く欲をどういなせば良いか、そんなことはこれっぽっちも教えてくれなかった。

 大丈夫ですよ、エドワルドさまがきっとよくしてくださいます、と髪を梳きながら唱えてくれたコーティの方がずっと緊張をほぐしてくれた。

 エドワルドがどんな表情でいるのか、恐ろしくて目を合わせることができない。厚い背にしがみついているのが精一杯のナターシュはしかし、背骨を一つずつたどりながら下りてゆく指先に揺さぶり起こされ、歓喜に震えて彼を求める。髪の先、耳たぶ、鎖骨のくぼみ、二の腕、腰の鱗。ただの「部分」にすぎなかったものが命を吹き込まれ、ようやく血肉として備わったようにさえ思えた。

 ひとすじだけ残った理性が押し寄せる波に逆らって、まって、とか細く呟く。


「なんだ、怖くなったか?」

「いえ、そうではなくて」


 意を決して見つめた翠の眼は思いのほか真摯で、誠実だった。悦楽こそあれど、嗜虐も侮蔑も見当たらないことに安堵し、羞恥をねじ伏せて言葉を継いだ。


「あの、はじめての時には、その……血が出ると、認識しているのですけれど」

「そうだな。汚すのは恥ずかしいか?」

「いえ、まあその、それもありますけれど……その、わたくしの血は竜の魔法の源ですから……ええと」


 ぴたりとエドワルドの動きが止まった。


「まずいのか。魔法を使うのはシャナハだろう?」

「血は同じですから。具体的に申し上げると、竜が魔法を待ちわびて興奮します」

「それは困るな」


 焦れたシャナハがついに怒り始めたので、仕方なく交替した。そろそろ眠くなってきたし、あとは任せよう。彼女の方が少しばかり宵っ張りだから。


「シャナハ?」

「はい。エドワルドさま、だからきっと、おくににわたくしたちを連れて行ってくださいましね。焦らすかたちになってしまって申し訳ないのですけれど……」

「まあ、そんな事情があるなら仕方ない。竜がそうなるってことは、おまえたちが血を流しているのだと、繋げて考えられる者が多いのだろう?」


 シャナハを丸ごと抱きすくめて、彼は内腿を撫でた。埋み火を抱えて熱の引かぬのを的確にまさぐられて、呼吸が小刻みに震える。


「ナターシュが応じてくれたのも嬉しかった。もちろんシャナハも」

「はい」


 腕を伸ばして頬に唇を寄せる。いい歳をして少年みたく笑う王子がとてつもなく愛おしく思えて、額に、まぶたに、口づけの雨を降らせた。いつか誰かにこうしてみたかったんだよなあ。満足を分かち合ってくれるはずの姉はすでに眠っている。


「……エドワルドさまは魔法を使われるの? わたくしたちの入れ替わりを見ただけでわかる人はコーティとおばさまくらいなのに、どうして?」

「いや、おれは適性がないと言われてる。魔法を使うのは、連れてきた中ではクレムと、操船要員だけだよ。何でわかるかって言われてもな……。何となく、としか」


 何となく、で入れ替わりを見破られては悪さもできない。つまらないが、愛の深さゆえだと思っておこう。ナターシュはきっと、馬鹿げてると言うだろうけれど。黙っていればわかりゃしない。


「あともうひとつ。地震があって、船を飛ばして下さって、ナターシュを見た時、がっかりなさらなかったの?」

「がっかり? なぜそんなことを訊く」

「だって……姉上含めて、王女であれば誰でも良かったのかと……。一番上の姉以外は、まだ嫁ぎ先も決まっていませんし」


 エドワルドはふと頬を引き締めて、仰向けに転がった。腕だけで招かれ、肩に頭を預ける。


「母は流しの踊り子でね。いわゆる卑しい身分ってやつさ。おれも、王子とは名ばかりで、王位継承なんて夢のまた夢の話だ。おまけにこれ」


 炎の赤毛をつまんでみせる。首を傾げると、彼は小さく笑った。


「北王国が分裂と統一を繰り返してきたのは知ってるかな。その昔、北王国が今のように統一国だった頃、王を誑かして奢侈に耽り、長く続いた平和をぶち壊した妃がいたそうだ。国は四分五裂し、戦火に包まれた。その奸婦が赤毛だったんだよ。今でこそ赤毛が偏見を持って見られることも少なくなったが、王族となればだめだ。そんなわけで、おれは早々と殺されるところだったんだが、エリザベス……一番上の姉に救われ、都から遠く離れた海峡群島の領主に据えられた。人助けなんかじゃないぞ、姉は南との流通の拠点を抑えて、情報と貿易の利益を吸い上げようと目論んだわけだ。もしおれが期待外れであれば別の首を据えるだけ。気楽なものさ」


 エドワルドはこちらを見ない。闇がわだかまる天蓋のはるか向こうを眺めている。


「玉座に欲はない。けど竜の島には興味がある。本土や王都の騒乱で群島の自治が揺らがないほどの安定した力が欲しいんだ、おれは。地震が起きてすぐに船を出せたのは、常にこの国と島を見張っていたからだ。主に低地クォンダ側だけどな。それで……一人きりでおれの前に出てきたナターシュを見た瞬間に、わかったんだよ。おまえたちがおれと似た境遇にあるって。それを、何とかしてやれたらと思ったんだ。がっかりするも何も、おまえたちは十分すぎるほどに綺麗だぞ。何を思い悩んでる?」

「では、同類を相憐れんだと?」

「嫌か?」


 いいえ、ちっとも。エドワルドに覆い被さって抱きしめる。甘く呼ばれて求められる。ナターシュは閨入りがそれとなく伝わるのを恥ずかしがったけれど、そもそも彼はそういうことをしに来たのだし、竜の様子云々はさておいて、コーティが屋敷に下がったことで明らかだ。お預けになるほうがずっとつらい。同類だと言うなら、彼もきっと同じ気持ちでいるだろうし、おまけに彼には片割れがいない。

 あたしたちはきっとよい夫婦になれる。ナターシュもエドワルドを嫌っているわけではない。生来の用心深さと臆病さが邪魔をしているだけ。

 ――父王ときょうだいたちは何と言うだろうか、と疑問が兆し、すぐに消えた。

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