二 天つ風(4)

 執務室に顔を出し、マグリッテに目が覚めたことを伝えた。忙しいときにすまないと頭を下げる。竜の術式を施した叔母はもちろん、ナターシュとシャナハの事情を十分に理解していて、都が息苦しいのならと身柄を預かってくれている。


「構わないのよ、疲れたら十分に休んで。そろそろマリウスもしっかり休ませた方が良さそうね。あの子も丈夫な方ではないから」

「では代わりにわたしが」

「お願いするわ。ナターシュもシャナハも、くれぐれも無理はしないでね。魔法を多用しないように」


 竜の魔法は、この島国の成り立ちと深く関わりがあるとされている。

 はるかな昔に、島の礎である始祖竜が血を分けた人間が王として起ち、国を治めた。

 最初の王は竜の血と同時に魔法を授かった。竜たちをかしずかせ、思いのままに操るちからである。優れた竜の魔法の使い手は、始祖竜の力を借りて大がかりな術式を組み立て、不可能を可能にする。

 そんなふうに語られてはいるが、血が広がって薄まりゆく中、王家に連なる者でも竜の魔法との相性は様々だった。ナターシュはからっきしだし、国王と亡くなった王妃はどちらも魔法の力が弱い。マグリッテとマリウスの親子に比べれば、ナターシュのきょうだいたちは嗜む程度で、王の直系にあたる者ではシャナハが一番の適性を見せていた。肉体無き存在となってもそれは変わらない。

 王は竜の託宣によって選ばれるが、竜の魔法をよくする者だとも限らず、しかしながら竜の飼育のためには魔法の使い手が不可欠とあって、途方に暮れた王家は近親婚を繰り返した。成果があったとはとても言えない。王家は短命化し、持病や障碍を抱えて生まれる子どもが増えた。始祖竜は焦る王に何も語らない。

 マグリッテは現王ラズレランの妹にして当代最高の竜魔法の使い手であるのに、高山地帯に引きこもっている。政治的な均衡を考慮して身を引いたのでは、とナターシュは思っているが、話題にしたことはない。託宣を受けた正統の王は父であるが、すぐれた竜魔法を持つ叔母が都にいれば、人心が分かれかねない。それを危惧したのではないかと。

 狭く、外との行き来も限られた島であるから、民らにもごく薄く王族の血を有する者がいる。例えばダリンやティレだが、彼らは竜たちとよく心を交わし、竜使いとして山地に留まってくれている。

 高山地帯の暮らしは厳しいが穏やかだ。竜を育て、竜とともに生きる。時折、都に下りて祭りを楽しみ、新しい服や靴を買い求めて、海の幸に舌鼓をうつ。

 飛竜を求める国の兵士らを迎え、訓練をつけるのも重要な仕事だ。都の防衛のためにとびきりの竜を育てることも。娯楽らしい娯楽もないが、山道をえっちらおっちら登ってくる行商人、踊り子や歌い手、人形劇団は人々を慰める。

 そんなささやかな日々を支える国、基盤そのものがひどく脆く、行き詰まりにさしかかっていることを地震とエドワルドの侵略は明らかにした。これまで見ないふりをしてきた呑気な国防、限られた国交、神話と竜の虚像に頼りきった国政が浮き彫りになってしまった。

 このままではいけない、とナターシュは思う。国を立ち直らせるためとはいえ、エドワルドの厚意に甘んじて良いものか。北王国の属国となるだけではないのか。

 独立を保ちながら、復興を成し遂げ、北王国――エドワルドとうまく付き合う方法はないものだろうか。


『あたしたち、北王国のこと何も知らないよね』

「そうだね。エドワルドさまもずっといるわけじゃないだろうし、竜舎の再建の資材も準備してくれるっていうから、一度は群島に帰ると思うんだ。その時に一緒に連れて行ってもらうのはどう。もちろん、みんなに許可はもらわなきゃならないけど」

『うん……うん、そうだね。実際見てみなきゃわからないもんね。そうしようよ』


 ナターシュがこんなふうに言うなんて珍しい。シャナハはにこにこしている。




 町に下りていたマリウスを探し、休憩するよう伝えた。彼はずいぶん憔悴して、指揮所として使っている食堂で何とか椅子にかけているといったありさまだった。領民たちだけでなく、海の民らにまで心配されている。

 不在を詫びると、マリウスは力なく笑った。竜の魔法に親しみ、留学して高度な学問を修めた彼はナターシュとシャナハのよき理解者であり、都にいる本当のきょうだいたちよりもずっと近しい存在だった。


「ナターシュも疲れてたんだよ」


 高山地帯で暮らすようになってからのナターシュの競争相手であり、喧嘩相手であり、気取らぬ友である彼は、恐らく二番目の姉と結婚することになる。

 王家筋の男子は数が少ない。ナターシュの一番上の姉は伯父の一人息子と結ばれた。一人きりの兄は、同じく伯父のところから女子を迎えることになるだろう。その話が纏まれば二番目の姉とマリウスが結ばれるはずで、すぐ上の姉、そしてナターシュにまで話が回ってくるのはずいぶん先だろうと思われた。まずは血の確保、それから外交であるから、よその国に嫁ぐ覚悟はしていた。まさか北王国へ、とは予想だにしていなかったが。

 間者から情報を得たエドワルドが、ナターシュを欲して高山地帯に来て、そしてシャナハを気に入ってくれたのだとすれば嬉しい。運命などと安易に口にするつもりはないが、出会うべくして出会ったのだと思えるから。

 ふらふらのマリウスを送り出し、代わりに食堂で過ごした。

 竜舎に続き、町でも救助者を掘り出し、遺体の埋葬を終え、すべての住人の所在が明らかになっていた。損壊した家屋の解体作業が始まっており、食堂ですべきことといえば、休憩のために訪れる民らに笑いかけ、労い、元気な姿を見せてやることくらいだ。

 エドワルドが提供した食糧が食堂にも運び込まれ、解体作業や瓦礫撤去、貴重品や家具の持ち出しなどに従事する人々に軽食と茶を提供している。

 余震への警戒はいまだ強いが、屋敷で避難生活を送っていた人々も自宅に戻りつつある。しかし食糧の配給は各家庭には行き渡らず、食堂での炊き出しが領民たちを支えていた。

 いつまでこの生活が続くのだろう、とは誰もが考えている。都への連絡はティレが担っているが、使者はいまだ姿を見せない。都にも飛竜はいるから、悪路も言い訳にはならないのに。

 そんなわずかな心の曇りを、淀む不安を、ナターシュは笑って拭い取る。大丈夫、わたしたちがしっかりしていれば都も安心して復興に専念できるでしょう。都も被害が大きいと聞くし、ここよりもたくさんの人が住んでいるんだもの、大変に決まってるわ。だからもう少し、わたしたちだけで頑張りましょう。


『でも……ほんとに都は大丈夫なのかな。こっちがティレを送ってるのに、向こうからは何の連絡もないなんて、ちょっとひどくない?』


 シャナハの声も愁いを帯びる。自分たちが率先して「大丈夫」と口にすることで民らの不安を逸らす、これは実際のところは「姫様が大丈夫と仰っているのだから」と内心を表に出すことを禁じているに等しい。弱ったところを見せることも士気に関わり、かといって明るく振る舞っても目隠しにしかならない。

 高山地帯の状態にも、エドワルド――北王国の介入にも反応がない。父王が何を思っているのか窺い知れないのは不安だった。憤慨のあまり、言葉にもならないのか。それとも彼を賓客と見なすか。それにしては反応が鈍い。本心はさておいて、まずは感謝のひとつも述べるのが筋だろうに。


『早いことエドワルドさまと一緒に、父上に会いに行ったほうがいいみたいだね』


 そうだね、と小さく同意する。シャナハが内心の不安に寄り添ってくれなければ、地震が起きたときももっと取り乱していただろう。彼女がいてくれて良かったと思う。

 陽が傾く頃、食堂を辞して屋敷に戻った。前庭で飛竜たちの世話をしていたリウリに呼び止められる。

 少女は屋敷に戻ったマリウスの体調を案じ、ナターシュをも気にかける社交辞令じみた文句を述べ、それからようやく切り出した。しきりと周囲を気にしている。


「姫さま、あの……わたし、ずっと気になってたんですけど……でも、こんなことを申し上げるのはとても失礼なことなのじゃないかって、思ってて……」

「どんな話でも怒ったりしないって約束する。なあに?」

「姫さまはエドワルドさまのお妃様になられるんですか?」


 リウリは泣きそうだ。竜舎で働いているうち、周りの大人の話を聞きかじって知ったのだろう。そして、少女なりの繊細さ、聡さで物思い、感じ入るところがあったのだろう。


「エドワルドさまは王様ではないから、お妃とは言わないけれど、そうね、あの方の妻になります」

「……嫌じゃないんですか」


 ああ、とかすかに吐息が漏れた。彼女はすべて理解している。かの王子が救いを差し出した、もう片方の手で何を掴もうとしているか。何を欲しているか。マグリッテやナターシュが要求を拒めないことも、それが民らのため、竜のためであることも。

 こんな年端もいかぬ少女に心配をかけているのかと思うと、それだけで泣きそうだった。細い体を抱きしめる。また背が伸びたようで、彼女の視線は小柄なナターシュに追いつこうとしていた。

 リウリは今年十一になるがまだ横の成長が追いつかず、体の丸みが乏しい。父ダリンに負けず劣らず竜を愛し、細やかに心を通わせていて、将来有望な竜使いの卵だった。

 朗らかに姫さまと呼んで慕ってくれる彼女を妹のように思っているし、しあわせになってほしいと思う。こんなくしゃくしゃの顔をしてほしくない。


「嫌じゃないよ。でもね、もしも嫌であったとしても、わたしのいちばんの仕事は高山地帯だけじゃなくて島のみんなが安心して、安全に暮らせるように計らうことなの。それが王女でいるということだと思う。どんな人のところへ嫁ぐことになっても、その方がこの国を良くして、みんなをしあわせにして下さるならわたしは構わない。逆に言えば、どんなに男前で、お金持ちで優しい人であっても、それを自分のためにしか使わないのなら、夫にしたくない。だから、そんなふうに思わないで。わたしだけがしあわせになっても意味がないの、わかる?」


 リウリは曖昧に頷いた。


「エドワルドさまだってそう。食糧とか人手とかお薬とか……わたしたちが必要なものをいち早く届けて下さったのは、もちろん飛竜を手に入れるためでもあるだろうけど、何よりもわたしたちと仲良くしたいと思ってらっしゃるからでしょう。武力と恐怖で支配しなかったのは、恨みを残さずに良い関係を築きたいから。だから手を差し伸べて下さったのよ。ならわたしたちも応えなきゃ」


 まだすっきりしない様子のリウリに、笑顔を作ってみせる。


「それに、会ったこともないどこかの王子様に嫁ぐより、エドワルドさまの方がずっといいわ。少なくとも、行動力と財力と人望はあるのは明らかだもの。格好良いし」

「ふふ」


 ようやく頬を緩めた少女が家路につくのを見送ってから厨房に顔を出した。聞けば、先だってコーティとクレムが食事を運んでいったと言う。礼を言って屋敷を回り込んだところで、エドワルドとぶつかった。

 別邸で待つなり、人を寄越すなりすればいいものを、どうしてこんなところで待ち伏せされなければならないのだろう。不愉快だった。


「さっきのは、どういう意味だ」

「さっき、とおっしゃいますと」

「リウリと話していただろう」


 聞いていたのか。盗み聞きとは良い趣味をしている。嫌味のひとつでも言ってやろうと隣を振り仰ぐと、いつも傲慢な翠の眼が頼りなく揺れていた。驚いて、喉に引っかかっていた言葉を飲み込んでしまう。


「あの子に心配をかけまいとする心意気は結構なことだ。だが、他者を貶めるな。相手が子どもだろうが、めちゃくちゃに言われて呑気に笑っていられるほど、私は人間ができていない。言葉を繕えば何を言ってもよいと考えているなら改めろ」


 翠玉の眼に、感傷を恥じるかのごとく炎が迸った。


「あなたはまだ誤解なさっているようだ。私はできる限り友好的にことを進めたいと思っている。これは私の譲歩ではない。だ。おわかりか、ナターシュ姫」

「エドワルドさまの温情は痛いほど承知しておりますけれど、なにゆえ手間も時間もかかる方法をお選びになるのかは、わたくしの浅慮では至りませぬ。鋼と炎を用いれば、この地を平らげることなど容易いでしょうに」


 突き放した言葉に、シャナハがぎゃんぎゃんと噛みつく。曰く、言葉に険がある。思慮深さをまだ疑うのか。そんな態度だからぶつかるのだ、等々。

 エドワルドは苛立ちを隠そうともしない。


「だから、それでは意味がないと言っているんだ! あなたも強情だな。何があっても悲劇の主人公の座を降りたくないとおっしゃるわけだ」


 悲劇の主人公、という一言に皮膚が粟立った。死に別れた母、人目に晒さぬよう囲われた暮らし、分かたれた双子、こちらを見もしない父王、冷笑を浮かべる姉と兄。厳しい暮らしを強いられる山間で、民草に混じって暮らす日々。そして、国を引き裂いた地震と北王国の侵略。これまでの記憶が閃いては流れ去り、赤毛の悪魔に収束する。

 そう、悲劇だ。悲劇的な人生だ。それに酔わねばとうに折れていた。可哀想、と自分を慰めることこそしなかったけれども、シャナハとふたりきりの幸せを反芻することで、同時に不遇をも噛みしめ、味わっていたのだ。

 十八年、そうして生きてきた。マグリッテやマリウス、ダリン、人々が差し出す手に縋り、甘え、哀れみを糧に笑顔を浮かべて健気な王女を演じてきた。


「そうせずに生きてゆく方法を、わたくしは知りません! それとも、あなたが与えてくださるとでも、わが君?」

「おれが与えられるかどうかは知らん。おれだって人にくれてやる立派なものなんて、何ひとつ持っていない」


 吐き捨てるような、突き飛ばすような返答だった。


「だが、機会を与えることはできると思っている。知る機会、見る機会、考える機会……つまりは世界だ。ここではないところへ連れて行ける。結局はあなた次第だ、ナターシュ。選べることをあなたは知るべきだ。選んでいいし、拒んでもいいし、欲してもいいことを知るべきだ」


 ナターシュもシャナハも何も言えず、投げつけられた言葉の意味をひたすらに考え、咀嚼していた。ここではないところ。竜の島の外へ行けば何かが変わるだろうか。海峡群島を、北王国を見れば、考えが変わるだろうか。変わらざるを得ないのか。

 海峡群島へ行こうと決めたばかりで、こんな話が飛び出すのは偶然か、それとも。


『あたしは、エドワルドさまのこと信じてるから。ついていってもいいと思う。この島の外を見たいし、見なきゃだめだよ。ねえ、行こうよ』


 シャナハは積極的だった。どうして何の根拠もなく侵略者を信用できるのか、いや、彼は十分な献身で友愛を示したではないか。

 陽気で快活な海の民、素朴で心優しい高山地帯の民。悲劇の主人公。身に埋められた鱗。竜の魔法。いまだ便りも寄越さぬ都の王――。

 エドワルドの眼に、沈みゆく夕陽の最後のひとひらが煌めいた。風に炎の髪が舞う。

 差し伸べられた手に引き寄せられる。ほとんど何も考えずに体が動いていた。初めて相見えたあの日と同じだ。彼がこじ開けた空隙は途方もなく魅力的で、拒む理由などひとつも思いつかなかったのだ。

 おずおずと触れる。熱い手指が絡んだ次の呼吸では掬い上げるように抱き寄せられていて、何かを思うよりも早く唇が重なった。

 思わず目を閉じる。替わって! とシャナハが表に出て、覆いかぶさる熱に食らいついていった。


「シャナハは積極的だな」


 体を離して、エドワルドが笑う。シャナハはその腕を取り、お約束くださいましね、と小首を傾げてみせた。


「わたくし、たくさん学びますから。たくさんたくさん、教えてくださいましね」

「約束する」


 体温が額と頬に印を刻むのを、シャナハはくすくす笑いながら受け入れた。

 エドワルドがもたらすものが何か、ナターシュはまだ考えている。

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