二 天つ風(3)

 使用人控え室の寝台で目が覚めた。コーティが目ざとく着替えを運んでくる。


「おはようございます、ナターシュさま」

「おはよう、コーティ。どれくらい眠ってた?」

「二日くらいでしょうか。昼前ですよ」


 コーティはもちろん白の時間を知っている。慌てずに湯を運んできてナターシュが体を清め、着替えるのを手伝ってくれた。笑いをこらえている。


「エドワルドさまが血相を変えて知らせて下さったんですよ。冷たい、死んでるのに脈はある、呼吸もしてると仰って。たまにこうなる、体質だから心配無用と申し上げました」

「うん、ありがとう」


 知らなければ、体温が低く、昏々と眠るナターシュを死んでいると勘違いしても不思議ではない。境遇を悲観して、毒をんだとでも思っただろうか。


「目が覚めたらお知らせするよう言いつかっております。そろそろ?」

「そうだね、お願い。ご挨拶に伺いますと」


 桶を運び出すコーティを見送ってから、ゆっくりと体を曲げ伸ばしする。呼吸に合わせて手足を伸ばし、足首、手首を回して体をほぐしていると、扉を破らんばかりの勢いでエドワルドが転がり込んできた。


「生きているか、大事ないか、具合の悪いところは……」

「ございません。いつものことですのでご心配には及びません」


 彼は一息ついてナターシュを眺め、わざとらしく咳払いしてから、そのようだなと頷いた。


「コーティに体質だと聞いたが……そんな体質があるものか。驚かせるな」

「申し訳ございません」


 膝を折ると、違う、と押し殺した声が頭上を撫でていった。見上げた翠の眼が、見たこともない色に揺らいでいる。


「他に、おれが驚くような体質はあるか。予め言っておいてくれ。毎度こんなふうに倒れられては、心臓がいくつあっても足りない」

「すぐには思いつきません」


 シャナハのことが頭を掠めたが、今は説明が億劫だった。そうかとぞんざいに頷いて、エドワルドはナターシュの手を取る。


「昼食がまだだ。食べながら話を聞きたい」

「仰せのままに」


 先に立って小部屋を出た彼が不意に振り返った。無防備な背中にぶつかりそうになって慌てて足を止める。


「……シャナハも無事か?」

「はい。無事も何も、眠っていただけですから。お望みでしたら代わりますが」

「いや。大事なければいい」


 硬い頬の線にわずかに朱が差している。シャナハも気づいたのだろう、きゃああ、と可愛い悲鳴をあげた。


『えっ、これ、もしかしてもしかする? エドワルドさま、もしかしちゃう?』


 もしかするも何も。シャナハと話せないのがもどかしい。そもそも、ナターシュとシャナハの関係を何も話していないのに、こんなに自然にシャナハの存在を受け入れている。気味悪く思うどころか体調を案じ、頬を赤らめて。

 昔は良いことがあればふたりで分かちあえた。抱き合ってきゃっきゃと跳ねて、小さな手を握りあって。今だってふたりで喜ぶことはできる。良かったね、うれしいねと語り合えばしあわせも倍になる。そうしてささやかな喜びを温め合って過ごしてきた。

 それでも、シャナハが傍らにいたあの頃のきらきらした時間はもう決して手に入らず、思い出ばかりが美化されてゆくのだった。


『ナターシュはさ、まだエドワルドさまのこと、苦手?』


 小さく頷く。こちらの苦境に颯爽と現れ、救いの手を差し伸べてくれた恩は何にも代え難い。悪い人ではないのだろう。北の悪魔と称されるような振る舞いはいまだ見せず、眠るナターシュに心を砕き、配下からの信頼も篤い。だからといって簡単に気を許し、靡くことはできなかった。

 彼がこの身を欲するならばくれてやろう。だが、この地を、竜たちを譲り渡すことには抵抗がある。高山地帯も竜たちも、ナターシュの所有物ではない。

 コーティが食事を運んでくるまで、ナターシュは椅子にかけ、エドワルドは窓の外を眺め、一言も発しなかった。食堂ではなく、客室で食べることを好んだ彼に、このときばかりは感謝する。食堂ほど広い場所に二人きりでは、気まずさも倍増しただろうから。

 彼が寄越した芋や玉葱、人参、薫製肉にチーズ、油漬けや酢漬けの魚、調味料や香辛料は傷ついた人々の心身を多少なりとも癒やした。山がちの土地ゆえに奢侈とはほど遠い暮らしをしている者ばかりで、海のものといえば干した魚くらいしか知らなかったから、骨まで柔らかな油漬けの魚にはナターシュも驚いた。

 細長い魚のわたを抜いて、筒に切ったものを油と香味野菜に浸して低温の窯で長時間熱するのだそうで、柑橘の輪切りとともに炙り焼いた薄焼きパンに挟んで食べるのだとか。

 昼はそういった軽食で簡単に済ませるのが海の民の流儀らしく、物資に乏しい高山地帯はそれに倣っていた。それぞれに忙しい民らも食事に時間をかけることはできず、都合が良かったのだ。

 寝込んだあとの食事は簡単なものと決めているナターシュは、病人用のスープを分けてもらっていた。まだ空腹を感じないから、このくらいで十分なのだが、案の定エドワルドは目を剥いた。


「それだけで足りるのか。大丈夫なのか」

「二日間寝ていましたから、いきなり食べては体が驚きます」

『エドワルドさまって、けっこう過保護だよね。心配性っていうのかな、鷹揚じゃないっていうか……いい意味で細やかっていうか』


 シャナハがにやにやしている。気遣いが嬉しいようだ。

 つとめてゆっくりとスープを飲んだが、エドワルドはほんの数口でパンを食べ尽くしてしまった。食事中に話をすると言っていたのに、いまさら何を遠慮することがあるのだろう。ひとつ息をつく。


「わたくしと、シャナハですが」

「……ああ」


 コーティに茶の用意を頼み、ナターシュはゆっくり切り出した。高山地帯には知るものばかりで、もう説明することもなくなった昔語りだ。


「ふたごなのです。わたくしが姉、シャナハが妹。王の五番目、六番目の子として生まれました。どこまで北王国に伝わっているのかはわかりませんが……」

「王女の出産で、王妃が亡くなったとは聞いている。双子だとは知らなかったな」


 シャナハはいつになく静かだ。ふたりにとって、このことはあまり触れられたくない秘密にあたる。我こそはと声を高らかに喧伝することでもない。国交のない北国にわずかなりともナターシュの存在が知られており、逆にナターシュはエドワルドの存在を露ほども知らなかった、このことが今回の事態を招いた一端である気がした。

 この国の人々は、ナターシュも含めてあまりに無知だ。行き来のない北王国に興味が薄すぎる。国交がないことは恒久の平和と同意ではないのに、何の備えもせず、悠長に暮らしていた。


「ここは、ご存知の通りあまり外に開かれた国ではございません。王家に外の血が入ることを拒んでいたふしさえあります。おのずと血は濃くなりました。叔母は生まれた時から足が立たず、マリウスは手足の指が六本あります。わたくしとシャナハは、腰から下を共有して生まれました。結合双生児、と言うそうですね。母が亡くなったのも難産だったがゆえです」


 エドワルドのおもてに、明らかな驚愕が走った。その驚きを見るのには自虐に似た愉悦があったが、行き詰まった王家の現状を述べるのは苦痛を伴う。善人の皮をかぶった侵略者に弱みを見せることは我慢がならない。しかし、避けては通れぬ道だった。


「わたくしたちは王女として人前に立つことを許されず、人目につかぬよう限られた者に世話をされて育ちました。虚弱でしたし、自分たちがふつうとは異なっていることくらいは子ども心にもわかっておりましたから、不満は言いませんでした」


 しあわせは傍らにあった。つらくても悲しくてもふたりでいれば我慢できた。


「ですが、長じるにしたがって、ひとつしかない体に負担がかかるようになってきました。医師は切るしかない、と言ったそうです。竜の魔法の使い手であった叔母……マグリッテが中心となり、医師と竜魔法使いを集めて、わたくしとシャナハを生かすべく、大がかりな術式を施しました。結果、ご覧の通り……体はわたくしが預かり、妹は竜の鱗に封じられ、わたくしとともに在ります」

「竜の鱗……腰にあったものか」

「はい。この島の本当のあるじにして、王家筋と竜たちの源流である、始祖竜がわたくしたちに鱗を授けて下さったのです。シャナハはもともと竜の魔法の使い手でしたから、親和性があったのでしょう。わたくしも妹も一命を取り留め、シャナハは変わらず竜の魔法を使います。交替制になったとお考えください。ですが、時折綻びが生じてしまいます。白の時間と呼んでいるのですが、ご覧になったようにただ眠ることしかできません。普段から長く眠らないと疲れてしまいますし」


 だらしなく頬杖をついて遠くを見つめていたエドワルドが、シャナハ、と呼んだ。瞬きをひとつ、ナターシュは妹と交替して裡に回る。


「お呼びでしょうか、エドワルドさま」

「あー、すまんな、用事というわけじゃないんだが。ナターシュとは全然違うと思っていたけど、双子だったんだな」

「ええ。初見でわたしとナターシュを見分けた方はエドワルドさまが初めてです」


 シャナハと話すとき、目元の険がかすかに和らぐことに彼は気づいているだろうか。口調が砕けることを自覚しているだろうか。姉に指摘されて初めて知った。


『お似合いだよ。想い合って結ばれるのはいいことだと思う。わたしが付属することだけが申し訳ないな』


 そんなふうに言わないで、とシャナハは思う。

 竜の魔法に親しむシャナハを竜の力で生かし、ナターシュの身体に埋め込むしかない。それでも生きるかと尋ねられたとき、五歳だった。先のことなど何一つ想像できなかったが、死ぬのは嫌だった。正確には、半身を失うのが耐えられなかった。

 ふたりで生きる。それはこれまでもこれからも変わりはしない。そんな幼い理解と互いへの尽きぬ愛情、言葉なき信頼だけを胸に生きてきた。

 身体がひとつになっても、こころがひとつになることはなかったから、意見が割れ

たときはじっくり話し合う。なにぶん、身体がひとつしかないから喧嘩もできない。


「もう具合はいいのか」

「どこも悪くありませんよ。人より少し長く眠る必要があるだけです。エドワルドさまも時々はお風邪を召されるでしょう?」


 シャナハが「エドワルドさま」としきりに呼ぶのは計算も込みだが、なかなかどうして効果があるらしい。やに下がっている、というのだろう、あの表情は。


「ナターシュ」


 呼ばれて再度交替する。もっと話していたい、と膨れるシャナハが愛おしかった。


「はい」

「身体をいとえ。あなたは私の妻になるんだ、一人の身ではないのだからな。何かあれば民らも動揺するだろう」

『民らって言った! エドワルドさま動揺するんだ! かっわいい!』


 言葉尻を捉えてはしゃぐシャナハにつられて笑いそうになって、慌てて奥歯を噛みしめる。


「……シャナハに仰ればよろしいのに」

「聞こえているんだろう? 私が直接言いたいのはあなたにだ、ナターシュ」

「承知いたしました、


 断りも入れず立ち上がって部屋を出る。何か言われるかと思ったが咎める声はなく、嫌味がすぎるとシャナハばかりが半泣きだった。

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