二 天つ風(1)
浴室ではそつなく振る舞ったつもりだ。冗談なのか本気なのかわからぬ「洗ってやろう」の申し出に身を委ね、いい香りの泡に包まれてくすくす笑い、大きな手のひらが体を撫でてゆくのに息を詰め、「エドワルドさまの手はどうしてそんなに熱いのですか」と無邪気を装って問うこともできた。とてもナターシュには真似できまい。
「熱いか? 海で太陽を浴びているからじゃないか。……湯を使っているのにあなたは手が冷たいな」
「これでも温もっていますよ」
お返しとばかりに石鹸を泡立て、エドワルドの全身に塗りたくった。「王子」の印象を裏切る引き締まった体躯は武人の鋭さと静けさをまとい、筋肉に
「手慣れているな。侍女にさせているのではないのか」
「なにぶん僻地で、人がおりませんから。エドワルドさまはお
「同じだよ。人手がないから自分のことは自分でする。海に出れば風呂にも入らんしな。しかし、山の湯という割には水が柔らかいな。もっと硬いものかと思っていた。海の近くの湯よりはさらっとしている気がする」
シャナハがあまりにも軽々とエドワルドを扱うせいか、ナターシュが膝を抱えていじけている。ほら、ちゃんと見ておいて。
「竜の島ですから、よそとは違いましょう。海のそばにも湯が湧くのですか。海の水と混じり合わないのですか? 湯の中にも魚はいるのでしょうか」
「子どもの質問だな、それは」
「いつかわたくしにも見せてくださいませ」
『あっそれ、巧い』
他人事のようにナターシュが感心しているけれども、相手の警戒を緩ませて懐に入り込むなんて、たいした技術ではない。
エドワルドも敏そうだから駆け引きだとはわかっているだろうが、先ほどまでつんけんしていた小娘に背を流され、故郷を見せてとねだられれば悪い気はするまい。毒気を抜かれた様子で、薄く笑った。
肌に触れ合った流れで、このままことに及ぶのだと思っていたが、エドワルドはシャナハの泡を流して浴槽に追いやり、下半身は自らの手でさっさと洗ってしまった。
「ここの状況が良くなればいつでも。あなたはおれの妻になるのだからな。まあ、急ぐ気はない。いま、この状況であなたが余所に行けば皆が不安になるだろう。憂いが完全になくなることなどなかろうが、な」
きゅうん、と胸が震えた。心揺らいでいるのがナターシュにも伝わるだろう。妻と呼ばれ、今すぐに攫うつもりはないと譲歩まで。なんだ、いい人じゃないか。
惚れっぽいのは自覚している。ダリンをはじめ、シャナハがきゅんきゅんしたお相手は王女の身分には釣り合わぬ者ばかりで、形ばかりの王位継承権であっても、廃嫡されていない以上は好きに夫婦の契りを交わすことなどできなかった。
ところがエドワルドは北王国の王子、いくら中央に遠い土地の領主であろうとも、竜を利用するべく手を伸ばしてきたのであろうとも、地位と身分は申し分ない。
もしも地震がなければ、あずかり知らぬところで話がまとめられ、南大陸のどこかの国の何番めかの王子に嫁ぐか、あるいはどこかの王の何番めかの妃になるかだと思っていただけに、話ができる相手に望まれたのは願ってもない僥倖である。
そこでふと不安が兆した。
「エドワルドさま……あの、わたくしは何番目なのでしょうか」
「なんばんめ? 何がだ」
だって、とさすがに言いよどみ、傍らのエドワルドを見上げる。狙ってのことではなく、動揺が大きかったせいでぽろりと涙がこぼれた。灯りは乏しいが月の明るい夜のこと、これまで尊大な余裕に胡座をかいていた男が目に見えて狼狽した。
「なんだ、どうして泣くんだ。何か気に障ることを言ったか」
「いいえ、いいえ……でも」
べそべそと子どものように涙を流すシャナハに替わり、ナターシュが前に出た。あとはわたしが何とかするから、と。
「失礼ながら、正室なのか側室なのか、お聞かせくださればと」
「ああ、そういうことか。他に妻はないし、今のところ他に迎える予定もない。この歳まで嫁が見つからなかったんだ、中央の連中はおれの名前さえ知るまいよ。知っている奴はこちらを海賊だ蛮族だと勝手に恐れて見下している」
その通りではないか。彼がこちらを見ないので、ナターシュは言葉を飲み込む。エドワルドは三十には届いていないだろうが、一国の王子がこの歳まで独り身でいるのは珍しい。
理由があるといえば、十八になったのに何の沙汰もない自分も十分にわけありと言えよう。なるほど、お似合いかもしれない。自嘲気味に唇を歪めると、濡れた腕が伸びてきて肩を掴んだ。
「ナターシュか?」
「はい」
「……さっきまでのは、何だ。いや、誰だ、と訊く方が良いのかな」
「シャナハとお呼びください。名乗りもせず失礼いたしました」
『誰、だって』
シャナハの喜びはナターシュにもわかる。ひとりとして扱われる嬉しさは。
「やはり、おれたちはもう少し互いのことを知るべきだな」
また担ぎ上げられる。入浴は終わりのようだった。逞しい背と固く締まった尻をシャナハのために見つめながら、ふと、彼の口調がずいぶんと砕けていたことに遅まきながら気づいた。
エドワルドに呼び出されることも彼がやって来ることもなく、夜が明けた。固めた決意だけが宙ぶらりんになって気まずい。シャナハはすっかり落ち込んでいて、何か間違っただろうか、失礼があっただろうか、馴れ馴れしかっただろうかとしきりに気にしている。
間違いがあったとすれば自分にだ。シャナハは十分に打ち解けていたじゃない、いい雰囲気だったよと必死になって慰めた。
朝駆けに行きたかったが、勝手に抜け出してはまた王子殿下の機嫌を損ねてしまうかもしれない。だが、自分たち以外に身軽に飛べる者もいないだろう。彼の不機嫌より島の状況が大切だと結論する。
『いいじゃない、別にずっと
シャナハもくさくさしているらしい。コーティが用意してくれた新しい服に袖を通し、別邸をそっと抜け出して屋敷の前庭まで走った。
竜舎の瓦礫撤去と再建が終わるまで、竜たちは雨ざらしになる。それを気にするような生き物ではないが、これだけの数が放されているとスピカがどこにいるかさえわからない。探してもらおうと、体を丸めて眠る竜たちの間を縫って歩く。すぐにスピカが気づいて首をもたげ、翼を広げた。
斜面に出て、空に舞い上がる。上空から見る島は酷いもので、
南方、
東へ向かい、海に出る。
南大陸、ミジャーラ皇国の港町に船が集まっているのが見えた。もしかするとこちらへ物資の輸送がなされるのかもしれない。静かにそよぐ稲穂、どこまでも続く平原は見慣れた光景そのままだったが、胸騒ぎを抑えられずに目を背けた。
北大陸の山脈や海峡群島もいつものように見て回ったが、気持ちを落ち着かせることはできなかった。
思えば、地震の前にスピカやヒスクァルがそわそわしていたのは何らかの予兆だったのではないだろうか。シャナハやマグリッテ、マリウスら竜の魔法の使い手が何も感じなかったのだから、動物的な勘かもしれない。
気が紛れるどころか、憂鬱になっただけだった。そろそろ戻ろうかとスピカを飛ばしていると、別邸の裏手、海に臨む高台にエドワルドが現れた。目にも鮮やかな赤毛が、白みゆく空の中にくっきりと浮かび上がっている。
向こうからも見えているだろう。目が合ったわけでもないし呼ばれてもいないが、無視するのも気まずく、傍らにスピカを下ろした。膝をついて頭を垂れると、早いな、と当たり障りのない声が降ってきた。
「エドワルドさまも」
「ナターシュか」
「はい。普段はわたくしです」
「左利きか」
とは、腰のナイフを指しての言葉だった。よく見ているなと驚いた。昨夜シャナハが右利きだと言ったことを覚えているらしい。
「シャナハとは逆です」
お互いの髪を梳いた幼き日々を思い出す。ナターシュの右手とシャナハの左手は常に握り合っていて、あの頃は常に温かくてしあわせだった。いまが不幸せとは言わないが、あの頃に漠然と感じていた充足や万能感は二度と戻らない。
シャナハは空を飛ぶうちにまた眠ってしまった。朝に弱い性質だし、十分に眠りが必要なせいでもあった。
「撫でても?」
スピカが大人しく控えているので大胆になったらしい。エドワルドがちらちらと彼女に視線を流している。
「大丈夫です。馬にするのと同じで、首のなかほどか背を。鱗のふちで手を切らぬよう、お気をつけください」
しばし竜の手触りや体温、鱗の硬さや色を確かめるようにおずおずと触れて、次にこちらを見たときには翠玉に野心が揺らめいていた。
「乗れるか」
「慣れた者しか乗せません。おやめください」
「あなたしか乗せんというわけか? よく懐いているじゃないか、しばらくじっとしているよう命じろ」
「竜使いは竜の嫌がることを命じません。かれらとて獣です。獣性が理性を上回れば、思いがけぬ怪我につながりますし、竜にも負担です、どうか……」
「少しだけだから」
彼は有無を言わさずナターシュを押しのけて鐙に足をかけ、スピカの背に跨がった。力ずくで止めなかったのは、痛い目に遭えばわかるだろうと思ったからであり、わがままに付き合うのが面倒だったからでもある。つまり、どうにでもなれ、と思ったのだ。
案の定、スピカは不愉快もあらわに身をくねらせ、エドワルドを振り落とした。
「いてっ」
飛び降りたところを翼で払われ、尻餅をついた赤毛の王子は怒りを湛えてスピカを睨む。まったくいい気味だが、右手が腰に伸びたのを見てしまっては動かぬわけにはいかない。前に立って翠の視線を遮った。
「申し上げましたでしょう。いくら人に慣れて懐き、従順そうに見えても、わたくしたちは竜らを強制することはできません。竜たちにも知性が、感情がございます。それを侵し踏みにじる権利は誰にもございません。もちろん竜使いにもです」
気づけば言葉が迸っていた。しかし言い過ぎたとは思わない。むしろ言い足りないくらいだ。
「……当てつけか?」
「そう思われるのであれば、何らかのお心当たりがおありなのでしょう」
エドワルドの表情が消えた。ここで斬られるならそれまでのこと。人道や倫理を掲げて侵略の足がかりを築く卑怯さと、異国の文化、異なる種の尊厳を解さぬ狭量さ、頑なさを嘲笑して死んでやる。
しかしエドワルドは抜かなかった。肩で息をついて、柄にかけた指を一本ずつはがし、立ち上がって尻を払ってから開いた手を再度握った。
「誤解されているようだ、ナターシュ姫。我々が……竜や人を蹂躙するためにここに来たわけではないと、少しもおわかりいただいていない」
「では、南の国で詠われる神々の物語を辿りに来られたとおっしゃる? この島を足がかりに飛び立つおつもりか。わたくしどもは、空の底に頭をぶつけると申しますけれど、海には同じ言い回しはないようですね」
「ところに依らず同じ水、と我々は言うが、こちらでは通じぬようだ。ならば両の眼をよく開いてご覧になるといい。海は空の鏡、空は海の鏡であること、心されよ」
エドワルドの眼は言葉を追うほどに力を増し、海の浅瀬にも萌え出ずる新緑にも見える翠を揺らめかせた。炎のごとく見えるのは髪だけではない。気圧されて奥歯を噛んだ。
高みから見下ろす笑みには得体の知れぬ余裕と傲慢が浮かび、許されるならば鼻っ柱を折ってやりたかった。昨夜、彼はナターシュを人質だと言ったが、ナターシュからすれば領民、竜、島のすべてが質に取られているに等しい。内心で呪詛をこぼすにとどめ、折れるほかはなかった。
「海の民は気が長いのですよ、姫。時化や凪、嵐や霧――人の手ではいかんともしがたいものを常々相手にしておりますからね」
「安心いたしました。竜の民も人の手でねじ曲げることのできぬいのちと共に生きておりますゆえ。不撓不屈にして柔軟を心がけておらねば、孤独を深めることになりかねませんもの。……スピカの食事がありますので、これで」
スピカはまだ緊張していたが、ナターシュが手綱を引くと素直に崖を蹴って宙を舞った。嫌味を込めて、大きく旋回する。
エドワルドがこちらを見ているのはわかっていたが、そのまま別邸を飛び越え、竜たちの待つ前庭に降りた。いつものように餌配りを手伝ってから、食堂に向かった。
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