一 落暉に映ゆ(3)
「足元にお気をつけください」
前庭を横切り、東の高台に建つ別邸に向かう。ここは国王やナターシュのきょうだいたち、南大陸からの賓客が寝泊まりするための平屋で、厨房と食堂、娯楽室、客間と続きの寝室、それに浴場があるきりの簡単な作りだが、海を臨む景観と丹精された庭が客をもてなす。
「平時であれば料理人を置くのですが、ご容赦ください」
「とんでもない。私どもはもてなされるために来たわけではございませんから、当然のことです。ナターシュ様、どうかお気を楽になさってください」
リフィジは穏やかな口調で詫びをいなす。当たりは柔らかいが、きっと計算高く冷徹で、怒らせてはならない性格だと目星をつける。
海賊まがいの稼業に手を染めているようには見えず、もしかすると海峡群島でも事務方に徹しているのかもしれない。しかし、手が汚れておらずとも腹の中が真っ黒、というのは貴人にありがちなことである。油断はならない。
「湯の配管を見て参ります。食事も持って参りますので……」
「リフ、ついていってやれ」
一番広い客間に腰を据えたエドワルドは上着を脱いで無造作に放った。王子ともあろう身分の男が袖を通すにはいささか趣味の悪い代物で、この混乱のさなかで見せびらかすには華美に過ぎた。配慮など望むべくもないが、それでも胃がむかつく。
「湯、と言いますと、鉱泉ですか」
「はい。普段は屋敷にだけ流しておりますが、お客様がいらっしゃる時はこちらにも。地震で栓や樋が壊れていないと良いのですが」
心配していたが、給湯栓を捻れば湯は出た。いつもより勢いが弱く感じるのは、どこかで樋がずれたり割れたりして漏れているせいだろう。先にお食事を、と伝え、厨房に向かった。途中、コーティを呼び寄せて手伝いを命じる。建前はともかく、邸内の偵察のために同行したリフィジの手を煩わせるわけにはゆくまい。
見られて困るものなどないし、竜舎や町中とは違って、屋敷の使用人はみな、北王国、海峡群島の領主が物資と人員を運び込んだ事実が何を意味するか理解している。貴族貴人への応対もそつなく、あるいは余所者を見物している余裕がない。
厨房にこもりきりの料理長もそうだ。食料の提供があったことは耳に入っているのだろう、ナターシュがおとなうと駆け寄ってきて、帽子を取って深く腰を折った。
「明日からはもう少し豪華にできるでしょう。伏せっている者にも精のつくものを食べさせてやれる。ありがたいことです」
「海では互いに助け合うのがならいです。ここは陸ですが、そうしてはいけないということもないでしょう。荒くれたちばかりですが、お世話になります」
リフィジもまた深々と頭を下げた。高慢ちきな応対に出ると思っていただけに意外だった。
「あの大きな鍋は何ですか」
指さす先を見れば、竜の餌入りの寸胴を載せた台車が並んでいる。
「竜の餌を入れるのです。竜は、果物や一部の花の蜜などを除いて、加熱したものしか食べられません。ですから、調理したものをあの鍋で竜のもとへ運んでゆくのです」
「餌ですか……それは初耳です。だとすれば、野生では生きてゆけぬでしょう。野生の竜はいないのですか」
「昔は野生の竜もいたそうですが、わたくしは見たことがございません。人の手の及ばない山地には、もしかするとまだ残っているかもしれませんが」
「餌は、どんなものを? 穀物ですか」
「そうです。米の薄い粥や、野菜スープのような。……肉食だと思われがちですが」
リフィジは頷いた。整った横顔にはっきりとした驚きが表れている。
「どれほどたくさんの肉を食べるのかと構えてきたのですがね。なるほど、戦場に連れて行くなら、その点でも考慮が必要ですね」
栗色の眼には思慮深い光があった。蛮族の王子がどれほどの無理を通そうと試みても、彼が止めてくれるのであれば心強い、と僅かに揺らいで、慌てて打ち消す。理性的に見えても、彼も北の悪魔のひとり。頼るだなんてとんでもないことだった。
夕食はスープとパンに、ささやかながら山鳥の燻製と山羊のチーズがついた。海の王子には葡萄酒も。
別邸に運び、コーティが茶を用意し終えるのを待ってともに控え室に下がると、張り詰めていた糸が緩んで膝がわなないた。
『ナターシュ、大丈夫?』
「ナターシュさま」
コーティの薄い肩に額を押しつける。いつも身ぎれいにしている彼女でさえも埃っぽく、血と汗と煙の匂いがした。
三つほど年長であるだけのコーティはそれだけに気安く、血の繋がったきょうだいたちよりもずっと近しく思える存在で、これまでどれだけ彼女に助けられたかわからない。
飛竜の駆り手として国軍の礼服に身を包んだナターシュはぱっと見、いいお家のご子息ふうだが、竜使いも領民もそんな末王女を愛してくれた。都に住めぬ不遇を憐れみ、血を流して竜の魔法を行使する痛みを分かち合ってくれた。
コーティはそんなナターシュを手招き、短い髪にも映える髪飾りを、手の傷を隠す長手袋を、やせっぽちの体を強みに変えるような大胆なドレスを用意しては、鏡の中に華奢な姫君を作り上げてくれるのだった。
コーティの手が施されると、ご子息だったはずの自分はどこからどう見ても深窓の姫にしか見えず、時に凜々しく、時にたおやかに鏡に向かって微笑む。シャナハがはしゃぎ、コーティも仕上がりに満足してつんと顎をあげ、小鼻を膨らませるのだった。なにより彼女が素晴らしいのは、その格好で人前に出ろとは決して言わないところである。
ナターシュ自身、見切りも整理もついていないさまざまなことを尊重してくれるのが、このうえなくありがたかった。
「姫さま、手が冷えています。早く温かいものを召し上がって。何なら葡萄酒ももらってきますから」
「ありがとう、大丈夫。ちょっと疲れただけだから。コーティも働きづめだったんだから、無理しないで」
ふたり並んでささやかな食事を終え、肩を寄せ合っていると、無情にも呼び鈴が鳴った。
エドワルドは食器を片づけるようリフィジとコーティに命じ、ナターシュを手招いた。
「今夜からこの棟で寝泊まりしろ。人質だ、わかるな?」
「言葉を選ばないと野蛮人だと思われますよ、エディ様。まあ、実際に野蛮人なんだから仕方ないでしょうけど」
「軽々しく野蛮と言うな。見ろ、ナターシュが驚いてるじゃないか。そっちのお嬢さんも」
威厳も何もなく気安い様子のエドワルドとリフィジには心の距離を感じるばかりで、何とも言えない。馴れ馴れしく話しかけるな、蛮族め。そんな本音を口にするわけにもいかず、コーティを促して食器を片づけた。
食器を乗せたワゴンの音が遠ざかり、補佐官が辞すと、さて、と不躾な視線に撫で回され、距離を取りたい本能と必死に戦わねばならなかった。
仮にも王女であるから、屋敷勤めの者はもちろん、竜の扱いを教えてくれたダリンや従兄弟のマリウスもナターシュをただの女性としては見なかった。それでもエドワルドの粘着質な眼差しは好色そうだと表現するのが相応しいものであったし、これが好色ということなのだとよくわかった。彼はそれほど、自らの欲望をむき出しにしていたのだ。
嫌悪感に食べたものを吐き戻しそうになるが、こらえた。つとめて考えずにいたが、
義務でしかないのだから、彼が海峡群島の領主である幸運に感謝し、南北流通の要衝であるかの地の豊かさが故郷を救うことに期待するほかはなかった。
閨についての一連の作法や望まぬ妊娠を避ける方法、子を孕むことについては初潮前に教わっていたが、いざそのときを迎えて冷静に進められる自信はない。とりあえず拒絶だけはしない、と決める。泣いても誰も見ていないし、取り乱して何の不思議があるだろう。シャナハに歌でも歌ってもらおうか。
『そのときになったら代わるから、大丈夫。あたしがうまくやるよ。あいつの顔はそんなに嫌いじゃないし』
相変わらず面食いだ。確かにエドワルドは整った造作をしているが、それだけで受け入れられるものでもない。シャナハがいいなら替わってもらおうか、と弱腰になっているうちに樽でも担ぐように抱えられ、息を呑む。
急なことで風通しも日干しもしていないが、寝台は柔らかく背を受け止めた。天蓋つきの寝台は普段寝起きしているものよりずっと豪華絢爛で、そんなことを考えて気を紛らわそうと思っていたのに覆い被さってきたエドワルドの翠の眼に捉えられた瞬間、恐怖に何もかもが吹き飛んで目を瞑る。
心配しないで、と囁いてシャナハが表に出た。
エドワルドの熱い手が首もとをくすぐって、薄汚れた軍服の前をくつろげる。襟は土埃と煤が汗でよれているといったありさまで、このままでは違う意味で耐えられない。
「あのう……せめて、湯を使わせてくださいませんか。そろそろ湯も溜まる頃合いですし」
シャナハの申し出に、エドワルドは目を細めた。喜んでいるのだとわかる。
「大胆なのか何なのかよくわからんな。風呂でしたいのか」
「お望みとあらば」
再び肩の上に担ぎ上げられ、脱がされた上着とともに浴室へ連れて行かれた。
大丈夫? こわくない? ナターシュの問いかけに答える余裕はないが、廊下の暗いガラスに向けて笑ってみせる。平気平気、任せて。
大胆、と彼は言ったが、まったくそんなつもりはない。ともすれば手が震えそうで、男の襟足、耳の後ろ、生え際や髭の処理など、細かなところに目を遣っては、野蛮な海賊のわりには清潔を保っているものだと気を紛らわせた。
「重くはありませんか」
「風を受ける帆や櫂や舵……重いものが海にはたくさんあるのでね。正直なところ、軽すぎて不満だ」
源泉から湧き出た湯は樋を伝い、石を敷き詰めた浴槽にそそぎ込む。浴槽が露天に切ってあることを確かめて、脱衣のための小部屋でエドワルドは足を止めた。シャナハを下ろしてシャツを脱がせ、あらわになった左腕を目にして顔をしかめた。
「何だこれは」
シャナハが竜の魔法を使うために傷つける左腕には、無数の痕が走っている。気にも留めていなかったが、確かに事情を知らぬものが見ればぎょっとするだろう。
「古い傷です」
「見ればわかる。どうした、誰かにやられたのか」
「まさか。自分でやりました。わたくしは右利きなので」
意味がわからん。呟くエドワルドの雰囲気が尖り、残る右腕をシャツから抜いて傷の有無を確かめた。その視線が固く押さえた胸に留まって残念そうに揺れ、そのまま
下って右腰で止まる。
「……鱗、か?」
はい。頷くことしかできない。
右腰、臍の横から太股にかけて、大人の手のひらほどの青い鱗が五枚並ぶ。かつてここにあった体温を、シャナハもナターシュもすっかり忘れてしまった。夜光虫のごとくぼんやりと輝く鱗を、エドワルドは身を屈めたまま無言で見つめる。
「なるほど、語らうべきことはたくさんありそうだ。ところで」
左手が伸びてきて顎を捕らえられる。鼻が触れそうな距離で冷ややかに光る翠玉に睨まれるが、いまさらこの程度では怯まない。
「あなたは誰だ。ナターシュではないな?」
おや。裡でしょげていたナターシュも顔を上げる。
なんでわかったんだろう。ふたりの疑問は声にならない。
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