一 落暉に映ゆ(1)
「何よりもまずは人命、それから竜だ。助かる命を助けねばならん。そうだろう、ナターシュ姫? こちらにはそのための労働力と物資、何なら金銭をも提供する用意がある」
赤毛の男はそう言い放ち、山を越えて飛んできた帆船を示した。夕さりの風を孕む帆には北王国王家の紋章が描かれている。剣と双頭の鷲の意匠が意味するところは、髑髏とどれほど違うのか。
「竜はそちらの宝だ。それを育て、訓練する技術も。ここでむざむざと失って良いものではない……違うか?」
「仰るとおりでございます」
だろう、と男は無感動に頷いた。差し出されたむき出しの手のひらは分厚く、剣のものだけではないたこができている。貴人の手ではなかった。
彼の手を取るのは簡単だが、代わりに差し出すものの大きさをナターシュは把握しきれていない。この国? 竜? この身? それはつまり、北王国に膝を折るということではないか。これまで保ってきた独立が失われるということではないか。始祖竜に託された竜たちを、北の悪魔どもに譲り渡すということではないか。
しかし、今も瓦礫の下で苦しむ領民や竜たちを見て見ぬふりをすることなどできなかったし、もちろんみすみす死なせる気もなかった。
彼がナターシュに何らかの権力――国政への影響力を期待しているのなら見込み違いもいいところだが、それはつまり、うまく誘導してやれば最小の支払いで、最大のものを得られる可能性を示している。
迷いはある。だが立ち止まって考えている時間がない。
ナターシュは草地に膝をついた。見上げた男は赤金色の夕陽を浴びて王者のごときたたずまい、燃える赤毛と翠玉は隠しきれぬ野心の表れか。
「ご助力をお願いいたします」
涙はこらえたが、語尾は無様に揺らいだ。彼の眼が細まって、すいと手が伸びてくる。口元には満足が浮かんでいた。
『代わろうか、ナターシュ? つらそうだよ』
シャナハの声には応えず、男の手を取った。思いがけず熱い手に戸惑う。
「わかっているな? そちらが差し出すものは何か」
「はい」
「それならいい」
ナターシュはかさついた手の甲にほんのわずか、触れるか触れないかぎりぎりで唇を寄せ、深く項垂れた。もう後戻りはできない。悔恨と自己憐憫が身をもたげて甘やかに食らいついてくる。そんなのじゃない、今はそんなのいらない。
馴れ馴れしく肩を抱かれ、体が強張った。
「悪いようにはしない。自分で言うのも何だが、私は『北の悪魔ども』の中ではずいぶんましな方だぞ。民が不安になる、涙を拭け」
にやにやと笑みを浮かべているに違いない余裕ぶった言葉が耳をくすぐる。正論を振りかざして諭されるより、ここで無理矢理にでも辱められた方がずっとましだった。情けをかけられることの惨めさを知らぬ彼ではあるまいに。
「町と竜舎に部下を遣る。私は領主殿にご挨拶しようか。返事は?」
「承知いたしました……わが君」
押し殺した声はみっともなく掠れて弱々しい。なぜ。なぜ、いつもの声が出ないのか。唇を噛むナターシュの頭上で、ああ、と海賊の王は鷹揚に頷き、それからふと声を潜めた。
「エドワルドと呼んでくれ。その方が気が楽だから」
「はい……エドワルド、さま」
「そうだ、それでいい」
エドワルドは頬を歪め、船に向かって両手で合図を送る。渡し板が架けられて次々と人が下りてきた。善意を纏った侵略者たちは男も女も屈強で、いちように陽灼けし、髪は色褪せてぼさぼさだ。文官に見えるのは柔和な笑顔を口元に貼りつけた長身の男を筆頭に、ほんの数名しかいない。
高山地帯が海賊どもに蹂躙される。その想像はナターシュの血の気を奪うのに十分だった。このけだものらが民らの憩う広場や、食堂を我が物顔で闊歩するのだ。そして子どもを殴り、女を犯し、男らを蔑み、蓄えを奪い、竜を我が物にする。
「エドワルドさま。どうかわたくしたち……新しい領民らに狼藉を禁じてくださいませ」
たまりかねてこぼした声に応じて振り向いたおもては不愉快げに歪み、怒りの光さえ見えた。
「もとよりそのつもりだ。姫の心象をこれ以上悪くするのは本意ではない。あなたの膝を折るために無辜の民を傷つけてどうする」
それに、と腕を取った手つきは乱暴で、ぎらつく眼は肉食獣の凶暴さと、ひとにしかありえない残忍さを秘めていた。
「狼藉というなら、私があなたにするだろうことだけで十分ではないかな?」
悪魔を受け入れてしまった。後悔はじくじくと膿み爛れ、癒えぬ傷となってナターシュを苛む。
事の起こりは二日前、昼下がりに島を襲った大地震だった。今なお生々しい記憶に、両手で顔を覆う。
最初に訪れたのは轟音と衝撃だった。
どおん、と重く激しい音と同時に部屋全体がたわみ、ナターシュは飛び上がった。竜が近くに墜ちたのかと思ったが、違う。激しい縦揺れが続き、地震であることを知った。立っていられずに膝をつく。遠くでなにかが割れる音がして、悲鳴があがった。
『地震だ!』
シャナハの声には珍しく焦りが滲む。揺れがひどく、返事もできない。
ランプや壁の絵が落ち、花瓶が倒れて水をぶちまけた。外は大丈夫だろうか。近隣の山が崩れたり、土砂が下りてきたりしてはこの屋敷だけではなく、集落全体が危険だ。
大きな揺れがおさまったと見るや、ナターシュは駆け出した。が、扉が開かない。お行儀を云々している場合ではない、と蝶番を外して蹴り破った。
「コーティ! いる?」
ナターシュ付きの侍女コーテスティスは廊下にうずくまって頭を抱え、震えていた。あるじの声に顔を上げて振り返り、半べそのまま頷く。
肩を抱いて立ち上がらせてやる。怪我はなさそうだった。大丈夫です、と言った顔には、冷静さが戻っていた。
「竜舎を見に行く。マリウスと協力してみんなを屋敷から出して、開けた場所にいて。後はおばさまの指示通りに」
「わかりました。ご無事で」
コーティは涙を拭ってマリウスの居室へと走っていった。危ない、何が起こるかわからないとごねないのが彼女の良いところだ。長年のつきあいで呆れられているだけかもしれないが。
右往左往する使用人たちに外への避難を命じ、厨房に火の手がないことを確かめてから坂を下る。
竜舎もまた大騒ぎだった。めったに声を上げない竜たちが吠え、唸り、合間に竜使いたちの怒声と悲鳴が混じる。あちこちに瓦礫の山が見え、遠くは土埃で霞んでいた。
地震の経験はないが、知識はある。しかし竜たちには知識すらないのだ。揺れで落ち着きをなくしているもの、混乱して暴れているもの、怯えているもの。居合わせた竜使いが総出で宥めにかかっているが、とても手が足りているふうではない。
竜舎の多くが崩れ、屋根が落ちていた。竜が下敷きになっているはずで、助けたいがやはり人手が足りない。誰もが冷静さを欠いていて、すべきことの順位をつけられないでいる。
『飛べる竜は
「それでいこう。まずは竜たちを鎮めたい。替わって」
竜舎からスピカを連れ出した。彼女も突然のことに動揺しているようだったが、あるじの姿を認めていくらかはましになった。
小麦色の竜を傍らに、シャナハは護身用のナイフで左の手の甲を切り、湧き出る血を地面に落とす。途端、スピカが、竜舎の竜たちがしんと静まって、人のざわめきばかりが大きく聞こえた。竜たちがこちらに注目しているのがわかる。命じられるのを待っている。
「怖がらなくていい。みんな落ち着いて行動しなさい。ダリンや他の竜使いに従うように。冷静になって。助けられる仲間は助けたい。だから、お願い」
落とした血に呼びかける。返事こそないが、ぎゃあぎゃあと騒がしかった竜舎が落ち着きを取り戻したことで効力が知れた。再び入れ替わる。
傷を布で押さえて簡単に血止めを施しているとダリンがすっ飛んできて、姫様、とすっかり嗄れた声を出した。一斉に竜が大人しくなったのはシャナハの力のせいだとちゃんと理解しているのだ。そうでなければ、ここで竜使いとして働くことはできない。
「すみません、無駄に魔法を使わせてしまって」
「無駄なんかじゃないよ。早く落ち着きを取り戻さなきゃ次に何かあったときが怖いし。飛べる竜は上げて、空から状況を見てきて欲しい。端屋には竜医を一人つけて、必要があればわたしかマリウスを呼んで。それから、負傷者は屋敷に集めて、竜舎との連絡を密に。伝令として見習いを二人ほど屋敷に遣って……それから都に使いを出します。残りは竜を助けてやって。わたしも後で向かいます」
余計な口を挟まず彼は頷き、ティレを向かわせましょうと言って竜舎に戻った。
『ほんとかっこいー……』
シャナハは昔からダリンにお熱だ。彼がミジャーラから妻を迎えたとき、彼女があまりに泣くので困り果てたことをよく覚えている。七歳のときだったか。
ダリンの娘のリウリはもう十歳になって、竜使いの下っ端として毎日こまねずみのように働いているが、少女の幼い憧憬のまなざしはいつもこそばゆく、背筋が伸びる気がする。
ほどなく、竜使いたちが鞍なしで空に上がり、それを追って竜らが次々と飛び立った。飛竜の体長、体高は馬よりもやや大きいくらいだが、翼を広げると倍以上になる。赤、青、橙、緑――多種多様な色彩の竜が空を埋めるのは壮観だ。訓練の時でさえこんなにも多くの竜がいちどきに飛ぶことはない。外に避難してきた者が空を指さしてほうっと息をつくのを見て、唇をひき結ぶ。
飛んだのは多く見て百。竜舎にいるのは四百ほどであることを考えると、決して安心できる数ではない。スピカも飛ばし、すぐに踵を返して坂を駆け上がり、屋敷に戻った。脇をリウリとデディ、二人の子どもが竜を駆って併走する。
「姫様」
「お屋敷に行くようにと父が」
「マリウスとおばさまの指示に従って。伝令だから、言われたことをきっちり覚えるのよ」
仕事を任されたことが嬉しいのだろう、子どもたちは地震の恐怖よりも、大任を仰せつかった興奮に頬を染めて小鼻を膨らませ、頷いた。
他にも数人、竜舎預かりの子どもがいるが、力仕事はまだ任せられないし、竜の指揮を執れるほど練度がない。伝令やお使いは専ら子どもたちの仕事だった。
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