双つ海に炎を奏で

凪野基

序章 朝明け

 ナターシュの朝は早い。

 厨房の竈に火が入る頃には、足音を忍ばせて竜舎にいる。簡単に区切られた房で竜たちが丸くなる中、スピカだけは朝に強いあるじの来訪を待っていて、鞍を負い、南向きの斜面から大空に舞い上がる。

 いちばん低い雲の底すれすれにまでスピカを上昇させ、夜明けを迎える空と海、眠りに沈む家々を眺めるのがナターシュの日課だった。

 白み始める空に向かって右手、広大な農地を抱えて豊かな南大陸には雲が少なく、はるか遠くの平原までが見通せる。収穫を前にした稲穂が薄明の中で黄金の絨毯のごとくたなびいていた。今年も豊作のようだ。

 南大陸の大国、ミジャーラ皇国とは行き来も盛んで、冬が来る前に表敬訪問するのがならいだから、そろそろお声がかかるだろう。

 左手、北大陸上空の雲は厚く、どんよりと霧が立ちこめている。海岸線に沿って峻険な峰が連なっていて、大陸全土を統べる王国の姿は空からでも見えない。雲の上までゆけばその限りではなかろうが、気軽に飛べる高さではなかった。

 北大陸と南大陸とを隔てる海には大小の島が点在していて、熟練の船乗りをも黙らせる難所なのだそうだ。島々は北王国の領土だが、首都から遠く離れ、行き来も容易ではない僻地においては偉大なる大君の威光も陰り、流通の要衝として独自の文化が興りつつあるのだとか。ひととものが入り混じり、猥雑ながら活気があると噂ばかりが聞こえてくる。

 スピカを駆れば大した距離でもないが、マリウスがあまりにもくどくどと「あそこには絶対に行ってはだめだよ。いいね、絶対だよ。絶対だからね」などと言い募るので訪ねたことはない。

 そうでなくとも、国交のない北王国の領土に、軽々しく空からお邪魔して良いものではないことくらいはわきまえている。いつかこの目で見てみたいものだが、その「いつか」がいつになるやら、とんとわからないのだった。

 スピカが声なき声で何かを訴える。今日はどこか落ち着きがない。腕を伸ばして首を掻いてやると気持ちよさげに目を細めるが、しきりに辺りを気にしていた。目を凝らしても、耳を澄ませても、ナターシュには何も感じられない。


「シャナハ、おはよう。ちょっといい?」

『よくない……』


 呼びかけに答える声はむにゃむにゃと頼りない。敏い彼女がでいられるなら、すぐそこに危険が迫っているのではなさそうだ。


「ごめん、寝てて」

『ふわーい』


 振り返れば西の海にぽつりと浮かぶ小島が見える。ナターシュが生まれ育った竜の国、あの小島は、かつて大地をつくり、海に水を張って空をまるく整えた神々がみずからの国に帰るために飛び立った、その踏みきり場なのだという。いずことも知れぬ神の国に飛びたつための最後の足がかり。

 かの神々を崇める者は、沈む太陽を受け止める島をことさらに重んじ、そこに住まう竜と竜使いたちを神の忠実なるしもべと尊び、日没の礼拝を欠かさない。

 島はいびつな四角形で、なるほど北西の方角に爪先を向けているようにも見える。竜と親しむナターシュたちは神への信仰を持たないが、創世神信仰は南大陸では広く支持されていて、敬虔な宗教者たちが島へやって来ることもしばしばだった。

 ナターシュ自身は、島を右足に喩えるなら、小指の付け根あたり――島の北側に広がる高山地帯ナッシアで、飛竜の世話と訓練に明け暮れている。折々の挨拶にこそ出向くが、活気のある平野部クォンダに下りていくことはほとんどない。緊急の用向きがあれば使いが来るだろうと、僻地に引きこもっていた。

 海峡の島周辺に浮かぶ漁船、南大陸にそよぐ稲穂、それらを朝陽がまぶしく染め上げるのを見守ってから、黄金色に照り映えるスピカの首を返して竜舎に戻った。

 その頃には竜たちもほとんどが目覚めていて、食事番が寸胴鍋に竜たちの餌を用意している。厨房の煙突からは機嫌良く煙が立ち上り、扉の外には竜舎へと向かう台車が並べられていた。

 スピカを竜舎に戻し、鞍を外して食事番を手伝う。ナターシュは朝が早く、小雨がぱらつくくらいでは朝の一飛びを止めないことは彼らもよくよく承知しているから、姫君ともあろう者が、と声を荒らげるのは口うるさいマリウスと、生真面目な竜使いラクチくらいだ。そしてそのマリウスは朝に弱く、ラクチは遅番なのか姿を見ない。

 食事番が運んできた寸胴鍋から木桶に餌を汲み出し、竜舎の房に配り歩く。ねぼすけの竜も温かな餌の匂いと、まだか早くしろと騒ぐ気性の荒い竜が暴れる物音で目を覚まし、やがてはみなおとなしく木桶に首を突っ込むのだった。


「ダリンは?」


 竜使いの長の居場所を問うと、端屋だと答えが返ってきた。いわゆる竜の治療院で、並び建つ竜舎から離れた風下にある。端にあるから端屋と呼ばれていた。小走りに端屋へ向かうと、彼は病んで食の細い一頭に、薄めた餌を少しずつ与えながら様子を窺っているところだった。

 ヒスクァルと名付けられた銀竜はここにいる中でもひときわ繊細で、病弱だ。人で言う気鬱の病のようなもので、落ち込んでいると飛ぶことはおろか、食事もせずに丸まってしまう。風や空気の変化に敏感で、大雨の前や嵐のさなかには決まって塞ぐほか、冬にもひどく具合が悪くなって、自分の尾や翼を噛んで傷つけることもあるため目が離せない。


「ダリン、おはよう。ヒスクァルはどう」

「おはようございます、姫様。どうって……まあ、ちょっと上の空ですね。いつもと

同じくらい食べてはいますが、気がかりがあるようだ。何でまた?」


 ダリンは四十を数えたばかりの、凄腕の竜使いだ。島に生まれ、幼い頃から竜医だった父について高山地帯で暮らし、竜と親しんだ。どんな気性の荒い竜も彼には翼を畳んで頭を垂れる。竜の血が濃いと讃えられるうちの一人だ。


「スピカが何だか落ち着かないみたいだったから、ヒスクァルはどうかと思って」

「スピカが? ふうん、天気も悪くなさそうだし、これといって思い当たることはないですが、気をつけておきます、もしかすると何か大きいことの前触れかもしれない」

「誰か卵を抱いてるとか、喧嘩したとか」


 竜の産卵期は春だが、稀に季節外れの卵を抱くものが現れる。卵を抱く竜は警戒心が強く、気が荒くなるため、繊細な竜は影響されがちなのだ。


「ありえますね。人が集まれば見て回っておきましょう」


 お願い、と後を託して屋敷に戻った。手を洗いながら窺うと、台車はすでに竜舎に去り、庭に面した窓も開けられていた。使用人たちも起きて、朝の支度が調っているらしい。

 首を伸ばして覗くと、領主にして叔母のマグリッテだけが食卓についていた。マリウスがいないのならお咎めはない。

 ナターシュは服の裾と襟を整え、おはようございます、と澄まして頭を下げた。

 マグリッテの微笑みに促され、卓につく。いつもの朝だった。

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