第4話 可能性との対話
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僕らは改めてお互いの相違点を探るべく、チャットでラリーをはじめた。
とその前に、まずはいちいち『そっちの僕』とか『そっちのお前』と言い合うのが面倒だということでハンドルネームを作ることになった。
小説家になった僕が『甲』で、結婚した向こうの僕が『乙』。
日常的に呼ばれている愛称の違いから、そう決まった。夢を追った方の僕が名前にちなんで『甲』を取り、家庭を作ることを選んだ向こうの彼が苗字にちなんで『乙』を取ったのは、なんだか皮肉めいていた。
乙は大学の法学部を出たあと、高校の社会科の教師になって、二十五歳のときに当時付き合っていた鈴木博子という女性と結婚し、二十六歳と三十歳のときにそれぞれ愛海、勝平という長女長男を授かり、今は広島市内の高校で教鞭を振るっているのだという。
長女と長男の誕生した年を聞いて、僕は少し驚いた。
二〇一〇年と二〇一四年。きしくも僕のデビュー作と二作目を出版した年と一緒だった。小説家にとって自分の作品は我が子同然とは言うけれど、この符合はあまりにも示唆的だ。それを言うと乙は、
乙:【夜泣きをしないだけお前の子どもの方があやしやすいな】
と返してきた。
乙:【で、その子どもは二人合わせていくら稼いだんだ】
そんな風に聞かれると、まるで自分が人気子役の親みたいだ。
乙:【印税の話だよ】
甲:【わかってるよ】
僕は現実世界では到底まともに取り合わない質問に意図も容易く答えた。
甲:【一冊目が五万部出て、二五〇万だったから】
乙:【二五〇万?】
甲:【そう。定価の八%の取り分。これでも新人の一冊目だから安いくらいだよ。本当は一〇%だからね】
乙:【それ書くのにどれくらいかかったんだ】
甲:【初稿が三か月で直しが一か月だから、だいたい四か月】
乙:【一月辺り六十万か】
甲:【いや、安定した仕事じゃないから】
乙:【で、今まで出したので合計いくらぐらい貰ったんだ】
こちらが返信しきる前に乙は食い気味に質問を寄越してきた。
真面目に計算したことはないけど、軽く頭の中で電卓を弾いてみる。『七年間でこれだけ』という念を推して、額を大げさに取られないよう控え目に返信したのだが、それでもやっぱりゼロの数の多さは作家でない人間にとっては毒らしい。
既読がつくなり、即反応が返ってきた。
乙:【すげぇ! 高級車に乗れるじゃん!】
甲:【だから、七年間で、だよ! 七年あったら普通の社会人だってそれくらい、っていうかそれ以上に稼ぐもんでしょう】
乙:【好きでもないことやってな。好きなことでそんだけ稼げるなら大したもんさ】
甲:【稼ぎ続けられるなら、ね。そんなに甘くないよ】
乙:【なんだ、スランプなのか】
スランプ、というのとは違う。書けるけど、出せないだけだ。自分の思う本を出せないだけ。企画を投げても、次に繋がらないだけ。だけど、そんなことを別の世界の僕に言ってどうなる。上手く行ってないと告げて、慰めてもらうのか。
冗談じゃない。そんなの、御免だ。
乙からの返信が止まった。僕の返事を待っているのだ。
甲:【昔、ね】
こういうときは軽い感じで、短文にした方がいい。言い訳じみたことも並べなくていい。
甲:【今は大丈夫】
どうせ、彼には確認しようがないんだ。
甲:【絶好調ってほどでもないけど、軌道には乗った感じ】
乙:【凄いなぁ・・・。俺が作家だなんて】
甲:【こっちこそ、変な感じだよ。僕が高校の教師になって、結婚して、子どもまでいるなんて。しかも、同じ歳で】
乙:【ありふれたもんだろ。教師なんて試験に通れば誰にだってなれるし、結婚なんて本気で相手を探しさえすればなんとかなる。なんとかなったら、子どもを作るなんて難しい話じゃない。あっちさえ元気ならな】
甲:【その、『なんとか』って言うのが僕にとっては一番厄介なんだよ】
乙:【なんで? 勉強して、試験に受かって、飲み屋で気になる女の子に声かけて、デートして、プロポーズする。みんなやってることだ】
甲:【それはそうだろうけど」
乙:【小説を書き上げて、新人賞を勝ち抜くより楽だ】
甲:【僕にはそっちの方が簡単だったよ】
一人でプロットを練って、空いた時間でこつこつ書いて、応募する。そこには苦手な科目と向き合う苦労も、異性に当たって砕けるための羞恥心の放棄も、相手を思いやって関係を継続させるための努力も必要ない。ただ自分の作りたいものを自分の信念にのみ忠実にやり遂げればいいだけだ。
問題は自分のやる気だけ。
けれど、そんな理屈をまともに他人にぶつけようとすると必ずこう返される。
乙:【それができないから凄いって言ってんだよ】
甲:【同じ言葉を君にも返したいね。少なくとも僕の友人には飲み屋で見かけた女性を口説ける男自体が、皆無だ】
乙:【草食系ってやつか】
甲:【その表現には異論がある】
乙:【なにが】
甲:【女性に興味がないわけじゃない。好みの女性が現れれば、僕だって、君のようにすぐさまってわけにはいかないだろうけど、手は尽くすよ。ただ僕はそういうことに至ることが頻繁じゃないってだけだよ】
乙:【最期に女の子にメアドを聞いたのは?】
甲:【……高校二年】
乙:【高校二年・・・。ひょっとして】
乙のテンションが爆発的に上るのが、チャット越しに伝わった。
乙:【御手洗志乃か! 同じクラスの!】
さすが、早乙女甲太。自分のことはよくわかってる。
甲:【そうだよ】
乙:【なっつかしいぃ!! いたな、そんな子! めっちゃ大人しい子で不思議ちゃんって感じなのに、ダンス部の部長で、動きがキレッキレで、文化祭でリンプビズキットのローリンを踊ってた!】
甲:【そうだよ】
メッセージを読みながら、僕も久々に高校時代の苦い思い出に触れていた。人生で五度目の片思いの相手にして、僕がその後の人生において背の低い子と、お喋りが苦手な箱入り娘を敬遠するようになったきっかけの女の子だ。
乙:【ギャップにやられたんだよな。普段は小動物みたいに可愛いらしいのに、ステージの上じゃ荒々しくって、それがたまんなくかっこよくて】
甲:【そうだよ】
乙:【でもメールの応対は酷かった】
甲:【そう、酷かった】
乙:【一週間に七通もメールを送ったのに、二通くらいしか返ってこなかった】
甲:【僕がしつこすぎただけだよ。あと、興味を持たれてなかった】
乙:【俺たちのことが嫌いだったんだろ】
甲:【だろうね】
乙:【で、手を拱いてる間に隣のクラスのイケメンにかっさらわれた】
甲:【そして、今じゃ彼女の旦那さま】
そのことを僕はSNSの『友達かもしれません』リストで知った。学生時代のカップルが卒業後も関係を維持して、無事ゴールインに至る例は意外と珍しくない。僕の知っている限りでも三組はいる。多くの友人たちは彼ら学生カップルの迎えた、いわゆる幸せな結末というやつにプラトニックな愛の完成形を見て、少女漫画さながらのピュアな世界に思いを馳せたが、僕は反対にぞっとした。断じて逆恨みや憎しみから来る妬みの類じゃない。初恋の相手と結ばれて一生を添い遂げるなんて。そんなの山奥の集落から一歩も外に出ずに人生を終えるのと同じではないか。そう考えるからだ。
男に生まれたからには、一人でも多くの女性と知り合って、愛し合って、死にたい。
と、心に決めておいて僕はまだ童貞だった。
乙:【きっとあのイケメンが彼女の運命の相手だったんだろ。外野の俺たちが割って入れなくて当然だ】
甲:【君の奥さんはどうなの。運命の相手だった】
乙:【どうだろうな。まぁ、そうじゃないのか。ぶっちゃけ、人生で一番好きな相手ってほどでもないけど、最愛の娘と息子には出会えたし。そういう意味では・・・運命かもな】
甲:【なにそれ。愛してないの?】
乙:【愛してるさ。そりゃ、時期によってはムラもあるけど】
甲:【倦怠期ってこと?】
乙:【まぁな。今は夫婦として、安定してると思う。良い意味で、空気みたいな存在だよ。ごくごく自然に共存してて普段は気付かないけど、一度途切れると、まともに立ってることもままならない自分に気付く。そういう感じ】
パートナーを持ってる人間はみんな同じことを言う。歩行と右足と左足を交互に出すことだって、説明するのと同じくらいに、それ以上に説明しようとがないのだろう。
僕にはさっぱりわからない。
甲:【なにはともあれ、子どもは愛してるわけだ】
乙:【当然】
乙は断言した。余計な文句もなく、たった二文字。その力強さがなんだか羨ましかった。
今の僕にここまで言い切れる何かはあるか。
いいや、ない。
乙:【で、草食系の件についてだが】
甲:【そこ、まだ追求するんだ】
乙:【当たり前だろ。その御手洗志乃以来、女子のメアドを聞いたことがないってのは、同じ俺としてどうなんだ】
甲:【メアドを聞かなくなったのは、単にあれ以来メールが嫌いになったからだよ。そもそもメールなんかで女の子と距離を詰めようっていうのが間違いの元なんだ】
乙:【間違いって、何が】
甲:【メールはコミュニケーションツールとして不完全だってこと】
乙:【その話って面白い?】
甲:【メールはプログラムされたフォントの文字を繋ぎ合わせて文章を作ってるだけで、こっちの感情や発言してる状況まで完全に伝えきることはできない。受け取る側の気分によっては何でもない文章なのに、相手を傷つけたり、不快にしたり、誤解させたりする場合がある。メールなんてのはあくまで社交上の簡潔な連絡手段とか、信頼関係の成り立った友人同士で使う電話の代用品であって、あまり交友関係も深くない異性と距離を縮めるにあたって濫用していいツールじゃない。同じ空間で相手の目を見て、声を聞いて、表情を読み取りながら、ひとつひとつの言葉を丁寧に受け取らないと、妄想とか誤解とかっていうのは次から次に湧いて出るもんなんだ】
乙:【でも、メアドを聞かないとデートの約束もできないぞ】
乙からぐうの音も出ない正論が差しこまれた。
乙:【俺だってメールだけで口説いたことはない。基本は会って話す。もしくは電話で相手の声を聞く。メールに頼り切りになるのが危険だっていうのはわかるけど、メアドを聞かないでいい理由にはならない。そこは聞けよ】
甲:【聞きたい子がいたらね】
乙:【理想が高すぎるんじゃないか。あんまりこじらせすぎると本当に一生独身のままだぞ】
甲:【一人で死ぬ気なんてないから、ちゃんと相手は探すよ】
乙:【結婚する相手か、それとも心中する相手か】
甲:【前者だよ】
戦前の文筆家ならまだしも、いまどきラノベ書き風情が女性と心中したところでネット界隈に草が生えるだけだ。
乙:【やばい、もう五時だ】
冬は朝が遅いからすっかり忘れていた。
もうじき夜が明ける。
僕らはパラレルワールドの自分とのひとときの、文字通りの、『自分語り』をお開きにしてそれぞれの生活に戻ることにした。
乙:【送ってもらった原稿はちゃんと読ませてもらうよ。小説を読むのに慣れてないから、何か月かかるかわかんないけど・・・】
甲:【僕だっていまだに苦手だよ】
それじゃまた、と打とうとして僕は乙の文章の、どうしても気になるある表現の問題を指摘せずにはいられなくなった。
甲:【最後にひとついいかな】
乙:【・・・なんだ】
甲:【『・・・』じゃない】
乙:【なにが】
甲:【その、間を表現するための点々。『……』だよ。三点リーダで変換の二回打ち。二つでワンセット】
乙:【なるほど……】
甲:【そう、それでいい】
乙:【……まぁ、俺が小説を書くことなんてないだろうけどな】
甲:【わかんないよ。人生は成り行きだから】
乙:【結婚も成り行きさ】
甲:【そうかな】
乙:【そうだ。ただし受け身じゃ成り行きは動かないからな。努力は怠るな】
甲:【努力したくなる子がいたらね】
乙:【現れるさ。現れたらちゃんと見極めるんだぞ。本当にその子でいいのか】
甲:【わかったよ】
【それじゃ】と打って、乙が既読したのを確認すると僕はスマートフォンをベッドに放り投げて座卓に背中を預けた。
成り行き、か。
社会人十一年目、妻帯者としては八年目、子の親としては七年目。乙の綴る文面には歳相応の大人らしさが滲み出ていた。家長としての責任感というのか、思春期の子どもたちと常日頃から向き合っていることから来る教師としての堂々とした佇まいというのか。言葉のひとつひとつが自信に満ち溢れていて、地面に根を張って立っているような力強さがあった。
きっと良き夫であり、良き父であり、良き教師なのだろう。
これも成り行きの産物なんだろうか。
作家としてもフリーターとしても煮え切らない僕の軟弱な言葉とは、決定的に違う。もし彼が今から小説家を目指そうと思ったのなら、きっと僕とは正反対の物語を書くことだろう。でも彼がその気にならない限り、彼が小説家になることはない。
結婚より簡単とは言ったが、結婚を知らない僕の安易な比較論に説得力なんかない。
小説を書く方が簡単と言ったのは、あれは僕なりの強がりだ。
本当はちっとも簡単なんかじゃない。
一文字一文字丁寧に書き連ねて、一語一語積み重ねて、状況を描写し、一ページ一ページ読者を説得する。ある日は3ページ書き進んでも、次の日に2ページ削除して書きなおしているときだってある。100ページ書きなおすことなんてザラにあるし、編集の意向で一作品まるまる没になることだってある。数々の苦難を乗り越えて、出版にこぎつけた作品がネットで酷評の嵐にさらされることも珍しくない。というか僕の場合は毎度そうだ。
簡単なわけがない。
しかし、それは仕事としての話だ。職場の正社員さんから話に聞く転勤の辛さとおそらくは似たようなものだ。新たな赴任地で同僚たちと信頼関係を構築しつつ、業績をあげることは何度繰り返しても困難なことに変わりはないが、経験を重ねるたびにある程度の要領は得られる。その正社員さんは『慣れ』とも言った。
作家も同じだ。ゼロから売れる作品を生み出すことはいつの時代のどんなベテランにとっても難題だが、ひらめきを下に創造を膨らませ、企画書を練り、文字に起こすことは次第にリズムとして精神に刻まれるようになる。書くことが食べることや歩くことや働くことと同じくらいに当たり前になる。
でも僕にとっての恋愛は違う。
三十三年間、一度も異性と付き合ったことのない人間にとっての恋愛は、人生で一文字も文章を書いたことのない人間が原稿用紙三〇〇枚超の処女作に挑戦するのと同じくらいにハードルが高く、難儀なことなのだ。歯医者に行くのが怖くて虫歯を放置して悪化させる子どものごとく、『夢を叶える』という大義の下、かれこれ十三年も恋をすることから逃げ続けてきた。このまま引き返す頃合いを見失って、売れない作家に身をやつし、乙の言うように独身で生涯を終えるのか。それとも失った十三年と向き合い、立ち止まって対峙するのか。
選択肢は二つ。
続けるか。
行くか。
逡巡しているうちに朝九時を回って、まともな思考力が働かなくなると、僕はまたいつものように答えを先延ばしにして、睡魔に誘われるまま枕に沈んだ。
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