第17話 宮白山
神隠しの噂の立つ宮白山。そして実際に神隠しが起こりうるこの山には、神隠しによってのみ入れる空間が存在していた。
仮に神隠し空間、とでも言えばいいのか。この地に棲まう神が創り出した、神の居場所。人の住む俗世とは分け隔てられた、本来入ることの許されぬ神域である。
神様が創り出した場所とはいえ、何も立派な社が建っている訳でもなければ天国か桃源郷のように楽園が広がっている訳でもない。
外の宮白山と変わらない、ただ閑かなだけのもう一つの宮白山。人の側から神の側にズレた裏側の世界には、表と変わらず参道と小さな社が存在するだけ。しかしその場の空気は、神世とまでは行かなくとも、かつて神が厚い信仰を集めていた時代の神秘を湛えていた。
……そして、そんな神隠し空間に、静寂を裂いて響き渡る人の声があった。
「ユウーーー!!どこーーー!!?」
声の主は動きやすそうな服装でリュックサックを背負った青年。
見た目は葛葉悠一。しかし、中身はゆらだった。加えて言えば、ゆら一人だった。
「返事してよぉーー!お願いだからぁっ!」
必死で自身の片割れを探す彼女は、既に半泣きだった。探し人の名前を呼びながら彷徨い歩く姿は、迷子の子供そのもの。臆面も無く叫ぶ様子は、十八歳という見た目の年齢にはそぐわない。
しかし、彼女の事情を考えれば仕方の無い部分もある。何しろ、ゆらが一人になったのは、初めてのことだ。今まではずっとユウという保護者が傍についていた。初めての一人での散歩ーー迷子とも言うーーがこんな不気味な山中では、パニックになってもおかしくはない。
「ユウ……お願いだからぁ!一人にしないでよぉっ!!ユウーーー!!」
とうとう一筋の涙が瞳からこぼれ落ちた。それでも知識だけは高校生という矜持でもあるのか、ゆらは手の甲で涙を拭い去り、泣くまいと努力する。
ユウが見れば驚くだろう。しかしむしろ当然のことだ。彼は完全に見誤っていたが、高校生になるまでの記憶を持ち、年齢相応の振る舞いが出来ていても、彼女の本質は三歳の子供でしかない。
親に守られ、親に導かれ、親の決めた範囲でのみ好奇心のまま冒険する。そんな精神年齢なのだ。
そう。
ユウが思っている以上に、ゆらは賢く、また幼かった。
実際のところ彼女は、自分が体の主導権を握っていることを正しく理解していたし、また神隠しについてはユウと同じく懐疑的だった。
ゆらがあまり表に出たがらないことを、ユウは自分に遠慮しているのだと考えていたが、それは的外れ。元々ゆらは保護者の後ろについて回り、保護者に見守られている中でのみ一人で動いてみるような年齢なのだ。
後ろから見ていて、時々やらせて貰うだけで満足だったし、保護者であったと言えるユウの言うことには、基本的に素直に従った。主導権云々以前に、大人の言うとおりにすることは当然だった。
もっとも、遠慮している、の部分は間違いではない。
その幼さ故に、ゆらはユウを慕い、強く必要としていた。幼い子供が親の愛を求めるように、ユウの親愛を求めた。
しかし同時に彼女は、知識だけはユウと同じものがあり、だからこそ自身が無償の愛を受け取れる存在ではないと分かっていた。むしろ厄介者になってしまうことを察し、それを恐れた。ユウに捨てられたらどうしよう、と。だから当初は彼に遠慮して、我が儘も出来るだけ我慢して、存在することを許して貰おうとした。
主導権について分かっていながら触れなかったのも、神隠しの存在を無理に信じたのも、捨てられたくない一心だった。ユウが夜刀上ゆらの情報を得てゆらの出現した理由を探り始めたとき、彼女は非常に心を揺さぶられた。彼にとって自分が邪魔なのではないかと危惧し、見放されることを強く忌避した。
そして、だからこそユウが冗談半分で言った、『元の体に返してやりたい』という発言に飛びついた。内心では察しながらも、自分は疎まれてなどいないと思い込もうとしたのだ。彼は自分にいなくなって欲しいから夜刀上ゆらを探るのではない。自分のためにやってくれているのだ、と。
良くも悪くも、ゆらは子供で、状況的に親代わりとも言えるユウに依存していたのだ。そんな子が突然一人で放り出されればどうなるか。当然それは迷子の子供と変わりない。
「うう……いないの……?ボク、どうすれば……」
頭を抱え、うずくまった。初めて経験した一人の孤独に押し潰されそうになる。
しかし、ゆらの持つユウの記憶面は冷静だった。揺れ動く感情と裏腹に、彼女の頭はどうするべきかの判断をとっくの昔に下していた。
「う、上に……いるのかな……あの神社まで行けば……」
しゃがみ込んでいた時間はそう長くなかった。お礼参りのためには宮白神社に行かなければならない。そこへ行けば合流できる出来るはずである。
ーー例え前と同じ状況になっても、上に登っていけば分社に着くんじゃないか?ーー
ついさっき、ユウはそう言っていた。
宮白神社には下の本社と上の分社があるが、目指すべきは上の分社。前と同じ参道に移動したこと自体は想定内なのだ。はぐれたのは完全に予想外だったが。
「くう……」
ゆらは泣きそうになる自分を抑え、立ち上がった。目元に溜まった涙も手で拭い、上り坂の方を見つめる。
雑木林の中の粗末な参道は、昼間だというのに薄暗い。落ち着いて見れば霧もうっすらと発生していた。完全に神隠しの中に入っているのだろう。不気味で、怖い。しかし上に行かないとユウと会えない。
恐る恐る歩き出す。
本当はユウを探すために走り出したいところだったが、恐怖がそれを押し止めた。
「ユウ……お願い、待ってて……」
今のゆらにとって、お礼参りだとか、お願いごとだとか、来た目的全てが二の次だ。
とにかく早くユウと再会する。今はそれだけしか考えられなかった。そのために彼女は、涙をこらえて必死に参道を上る。
だんだん、宮白山の不気味さすら気にしなくなっていった。
それ以上に一人が嫌だった。
知らない場所に一人で取り残された子供は、それほどの心細さを感じていた。
宮白山は妙に分かれ道の多い山だ。更に風景がどこも変わらず、故に道に迷いやすい。
そのややこしさが特に顕著なのは帰りとはいえ、上るときにも道が二手に分かれる場合もある。
一人で歩き初めて数分後。
ゆらの前には似たような道が二つ存在していた。
「どっちが正解なんだろ……いや、どっちでも大丈夫なんだっけ?」
右か左か。
一人でどちらに行くか迷うゆらだが、そのうち思い出したように参道の端に歩み寄り、落ちていた木の枝を拾った。近くで見て具合を確かめてから枝をポキポキとへし折っていく。
一分もしない内に真っ直ぐな木の棒が彼女の手の中に現れた。
「……これで、いいんだよね?ユウ」
分岐点のちょうど真ん中まで戻り、地面にしゃがみ、作ったばかりの棒を真っ直ぐに立てる。
……確か、ユウが言っていたのだ。
『そう言えばさ、夢で見た中では、ゆらは隠れんぼが終わった後も木の棒を持ってたみたいだったよな?少し思ったんだけど、それって多分さーーーー』
「隠し狐様、教えて下さい。」そう呟き、棒からそっと指を離す。
『こう言うことじゃないか?』
「……こう言うこと、なんだよね?」
倒れた先は右だった。どちらかと言えば少し細く見える方の道。しかし、ゆらの心は決まっていた。
「こっち、だよね?ユウ……」
作った木の棒を拾い上げ、持ったまま右の道へ向かう。気休めに過ぎないかも知れない行為だが、ゆらにとってはユウが言っていた事だと言うだけで十分にする意味があった。
それに、神様が本当にいる以上、効果がある可能性もそれなりにある。
ゆらは木の棒をポケットに入れるようなことをせず、夢の中での自分のように軽く振りながら持ち歩く。短く脆く、武器になるような物ではないが、それでも少しは心強く感じた。
少し大きくなった歩幅で参道を進む。
パニック寸前だった彼女は、段々と落ち着きを取り戻してきていた。一人という状況に変わりは無いが、少しずつ山頂に近づくにつれユウと再会できる期待が大きくなってきたのだ。とりあえずの行動指針があることも大きく、険しい顔ながらもう泣くことはない。
ただ、早くユウに会いたい。
それだけは変わらず、少しずつ足を早めながら上っていく。歩きながらも遠くを注視し、人影がないかを探す。
……それが災いしたのだろうか。
「あ、わぶっ!?」
足を引っ掛けたと思った直後、体が前に投げ出される。粗末な道に足を取られ転んでしまった。
強かに顔を打ちつける。しかし不思議と痛さは感じず、土の味に顔を顰めながら立ち上がった。
「いたた……くもない?ああもう、こんなことしてる場合じゃないのに……」
ーー大丈夫か?お前歩くとき大体キョロキョロしてるし、景色に集中し過ぎてすっころんだりとかーー
「…………」
呆れた誰かの声が聞こえた気がした。
こんな事でも彼を思い出してしまうとは。つのる孤独感とは別に、情けないとも思ってしまった。
覚悟を決めたって言ったのに。一人になった途端このていたらく。自分はユウがいないと何も出来ないのか。
「……そんなことっ!」
そんなことはない。そんなことでは、ユウと離れて自分の体に戻るなんて出来ないではないか。
冷静さが思い出させたちっぽけな意地が、彼女の背中を押した。油断すると溢れそうになる感情を理性で縛り、また山頂目指して歩く。
彼女はもう泣かなかった。
出来るだけ無心で足を動かす。
長く感じた道程を過ぎ宮白神社の分社が近づいたときには、とっくに涙は乾いていた。
……そして、また歩いて。
見覚えのある鳥居が見えたとき、ゆらは嬉しさで胸が詰まりそうだった。
あそこでユウが待っているのだと、確証もなしに信じ、一刻も早くと駆けだした。鳥居が示す明らかな差違にも気付かないまま、最後の石階段を一段飛ばしで駆け上がる。
彼はそこにいるはずだ。
数十分離れ離れになっていたユウと、ようやく会える。
「ハア、ハア…………あと、ちょっと……」
飛びついて、抱きつかんばかりの勢い。
いや実際、ゆらの内心では、
……とっても恐かったんだから、それくらい、いいよね?
と、そんな感じだった。
「…………ユウっ!」
そうして、階段の最後の一段を踏んだ。
到着。
宮白山山頂、宮白神社分社。
恐らくは、隠し狐の腹の内。
果たして。
そこに、『彼』はいた。
……いや、その表現はもう、正しくないかもしれないが。
「ーーおお、来たのか、ゆら。俺の方が早かったみたいだな」
待ち望んでいたはずの声が聞こえた。
しかし、ゆらの足は行き先を間違えたかのように歩みを止める。
何故なら、その声に聞き覚えがなかったから。
「つってもまあ、俺も来てそんなに経ってない。俺もお前も、位置的には本社近くだったのかもな」
近づいてくる、声の主。
ゆらは呆然とそれを見る。
ついたその場所は確かに宮白神社。しかしその変わりようは同じ場所のようには思えないほど。
濃い朱がむら無く塗られた鳥居。顔料の剥げた箇所など見あたらない装飾。ピッチリと敷き詰められた瓦屋根。そして腐っても朽ちてもいない、建てられて間もないと思われる本殿。ーーそこにある全てが、在りし日の姿を取り戻していて。
……そして、本殿の前には、葛葉悠一ではない人物が立っていた。
「なんというか……鳩が豆鉄砲を喰らったような顔だな。ま、気持ちはよーく分かるけどさ」
その人物は困ったように笑う。
その声は、葛葉悠一の物とは違って。
愛梨ちゃんの声によく似た、鈴の音のような綺麗な声だった。
「あー、はは。言いたいことがあるなら言ってくれていいぞ?」
固まって動かないゆらを見かねたのか。
そんな言葉に、ゆらは。
「……きみは、夜刀上ゆら、なの?」
そう、端的に尋ねた。
その問いに、聞かれた相手は、
「……ああ。多分、そうなんだろ」
どこか投げやりな、肯定の返事。
しかし、違う。
そうじゃないと、ゆらは否定する。
彼女は眠ったままのはずだ。
ここにいるのは、彼女ではないはずだ。
そう。
ここにいるはずなのは、
いていいのは、
「もしかして……ユウ、なの?」
「ああ。……そうだよ」
ユウのような口調で。
ユウのような表情で。
そこにいた彼女は頷く。
……筋肉の落ちた、細すぎる手足。
……太陽の光を知らない、白い肌。
……フリルのついた、白いワンピース。
見ているだけで壊れてしまいそうな、危うさと儚さを纏った、美しい少女。
ーーーー待っていたのは、昏睡状態だったはずの少女、夜刀上ゆら。
彼女はいつも彼がやっていたように息を吐いて、
「ーーーー俺は、『ユウ』だ」
そう言った。
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