第2話
爺さんは気絶したタヌキを枝に括り付け、家に持ち帰った。
婆さんは家の前で、空を見上げていた。
相変わらず天気は良い。
吸い込まれるような青さだ。
ビルどころか、老夫婦以外の家もない。
ただ美しい風景が続くだけ。
まるで別世界だ。
そんな素晴らしい世界にいるはずの婆さんは、心配で胸がはち切れそうだった。
爺さんが無事なのかどうか。
平和な日々が戻ってくることよりも、爺さんのことが心配なのだ。
夫婦愛を超えた何かが、この老夫婦にはある。
そして、爺さんの足音を風に聞き、婆さんは、思わず立ち上がった。
丘を登ってくる爺さんの肩には、一匹の、憎きタヌキ。
歓喜に打ち震え、思わず涙がまた溢れそうになった。
ついに夫は、成し遂げたのだと。
日常は戻ってきたのだと。
「ただいま、婆さんや。今夜はタヌキ鍋にしよう!」
「えぇ……えぇ、そうしましょう……!」
タヌキが目を覚ました時、
世界は二つの意味で逆転していた。
まずは、視界がひっくり返っている。
手元を見ると、物干し竿に吊り下げられた自身の体。
手足を一つに纏められ、なんとも情けない。
タヌキとは思えぬ筋肉量。
それに見合う体重は結構なものだ。
縄はタヌキの手足を容赦無く締め付けた。
痛みに苦悶の表情を浮かべる。
天敵のいない最強のタヌキとして有るまじき姿だ。
タヌキは最大限の恥辱を感じた。
「……クソが」
爺さんは、タヌキの小さな囁きも聞き逃さない。
ぶら下げられるタヌキを見て、にっこり笑った。目は、笑っていない。
「何か言ったか?タヌキ野郎」
「ケッ!いいや……何も……」
そう。
二つ目、自分の立場の逆転だ。
もはや自分は、人間に飼われる側。
今までの爺さんとは打って変わって、タヌキをあからさまに見下している。
当然だ。
無防備な宿敵が目の前にいるのだ。
そんなタヌキに加減など必要ないとばかりに、爺さんは容赦なく罵詈雑言をぶつけた。
その思いは婆さんも一緒だった。
たぬきが憎くて憎くて仕方なかった。
だが、あまりにも優しい婆さんだったのだ。
それが命取りとなる。
ある日のことであった。
「邪魔すんぜェーッ!今日も頂いてい……ん?おいババア、なんだそりゃ」
「あっ!!……あっ、えっと、その」
「早く言えよ!!!」
「はいっ、パ、パソコンといいます」
「はァ〜?知らねぇけど、なんか面白そうじゃん。そのパソコンってやつ、くれ!」
「こ、これだけは困ります。私達の作った農作物を広めるにはこれも必要で……」
「あ゛あ゛ん?!俺の言うことが聞けねェか!?お前もあのジジイみてェに……」
「分かりました!あげます!あげますから!」
「そうじゃねェ!『貰ってください』だろうがこンのクソババア!!」
「ひぃっ!!も……貰って……ください」
別の日も。
「あ〜、腹減った……おーい!邪魔すんぞォ!!ババア!!食い物よこせッ!早く!!」
「ま、まだ作ってないのですが……」
「じゃあ買いに行ってこいよ。」
「で、ではお金を……」
「はァ〜〜!?お前の金で買うに決まってんだろうがよォーーッ!!!死ねやッ!!何なら殺してやろうかァーッ!?」
「すっ、すいません!すいませんでした!いい、今行ってきますので……どうか……」
懇願すればなんでもやってくれる。
それをタヌキは、頭が悪いなりに学習してしまっていたのだ。
だが、やはりタヌキは馬鹿だった。
それは懇願ではない。脅迫だ。
ともかく、タヌキはそれを利用すれば脱出できると踏んだ。
大した考えはできないタヌキだが、
力と迫力ならいくらでもある。
いざとあればこの縄も千切ることができそうだが、
生憎今は全く力が入らない。
そう、空腹。
何も食べていないからだ。
腹が減って仕方の無いタヌキ。
段々と焦り始める。
今後、何も口にできないんじゃないか?
食い意地の張ったタヌキは、もはや食べることしか頭になかった。
食事ができないことに対する恐怖すらあった。死ぬなら腹一杯で死にたい。
そうなればもうプライドもクソもない。
そんなものかなぐり捨てて、タヌキは爺さんに頼んだ。
「なぁ、ジジ……爺さん。頼む。何か食べ物くれよ」
爺さんはタヌキに背中を向けて、
婆さんの料理の手伝いをしている。
「婆さん、塩コショウどれくらいかの」
「うーん、もう少し多めですね」
タヌキは、いつもならここで思い切り殴っているのに、と思いつつも、
頭の中はやはり食べることでいっぱいだ。
いつもなら情けなさすぎてできない事だって、なんだってやる。
めげずにもう一度聞こうとした。
「爺さ」
「おおっ!酒がまだ結構残っているじゃないか!婆さん、今夜は祝いに飲もうか」
冷蔵庫の奥にあった酒を見つけた爺さん。
まるで、タイミングを狙ったかのようだった。
「ふふ、そうですね」
タヌキは焦りを隠せない。
辺りを慌しくキョロキョロと見渡す。
このままだと、何も食べることができないまま、本当にタヌキ汁にされる。
すると、ふと思い出したように爺さんが玄関へむかう。
タヌキは爺さんの動きを追った。
「婆さんや。ちょっと畑の様子を見てくるから、このクソタヌキを捌いておいてくれ」
「分かりました、あなた」
扉を開け、爺さんは少し離れた農場へ向かったようだ。
タヌキは、またとないチャンスを得た。
ジジイはいない。今ならこのババアを殺せる。
自分がクソタヌキと呼ばれたことなど、もはや気にもとめなかった。
極限まで息を吸い込み、とてつもない迫力を込めて怒鳴った。
「おいババアッッ!!さっさとこれ解けやッ!!」
タヌキに背中を向けていた婆さんはびっくりして、腰を抜かした。
手に持っていた包丁を落とし、
床にカランと金属音が響いた。
例え無抵抗のタヌキといえど、
怖いものは怖い。
婆さんは怯えたようにタヌキをチラチラと見ることしかできない。
包丁を拾い上げ、再び料理を進めた。
タヌキは、婆さんの心の隙を見逃さない。追い詰めるように言った。
「おいババア。俺を殺したらどうなると思う?あまり調子に乗ってっと、呪い殺しちまうぜ?」
「でもあなただって私達を……」
「いーから解けって言ってんだろうがよォォォーーーーッ!!!そんなに死にたいのかァーーン?!」
「分かりました!!解きます!!お、お願いですから殺さないでください!!」
婆さんも可哀想な人だ。
なんの抵抗もできない上、
頭も悪い馬鹿なタヌキに対して、
まだ恐怖心を拭えない。
長年さらされたタヌキの脅威により、
婆さんはタヌキの言うことを否定できなくなってしまったのである。
作戦成功だ。
タヌキは気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「よォーし、物分かりの良い奴だ……さァー解け。」
婆さんは震える手で、縄を解いた。
解いてしまえば、タヌキは自由。
爺さんの苦労も水の泡だ。
だが、そんなことを考える暇は、
婆さんの頭にはなかった。
もはや、ただタヌキの言うことに従うだけの奴隷になってしまったのだ。
「ご苦労ご苦労。ヒヒ、あのジジイと違ってできる奴だな。オラ、料理に戻れよ。タヌキの肉は入らねェけどなァ!」
婆さんは思いつめたような顔だ。
タヌキに背を向け、料理を再開した。
料理とはいえ、作っているのはタヌキ汁ではない。もはやただの汁だ。
タヌキは近くにあった、杵に手を掛ける。
……こんな屈辱を味合わせてくれたのだ。
生かしておくはずはない。
殺す。
殺す……!
殺すッッッ!!!
「ありがとよクソババア!!地獄でも俺の食い物作っとけよッ!!死ねッッッ!!!」
振り下ろされた杵は、
婆さんの脳天を砕き、散らした。
そこら中に血肉が飛び散り、跳ね回り、部屋を赤く染め上げた。
タヌキの足元に、頭部の欠けた生き物がべしゃりと沈みこんだ。
声を出す余裕もなく、
婆さんは死んだ。
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