プロローグ 2

 暖かい春の風が、肩まで伸びた髪を揺らしている。

 桜の花も見ごろとなった三月の末、私は一件のアパートの前に立っていた。


 大通りから少し離れた所にある、木造の二階建てのアパート。見たところ築三十年はありそうかな。

 実際どれくらい前からこの場所に立っているのなんて、私は知らない。今日からここで暮らすというのに、リサーチ不足もいいところ。まあ築年数なんて、知っていても知らなくてもどうでもいい。どのみち私達には、他に行く所なんてないのだから。


「今日からここが、僕たちの家?」


 すぐ横で同じようにアパートを見ていた弟の八雲やくもが、私を見上げてくる。新しい家にわくわくしているようには見えなかったけど、だからといって慣れない土地に不安を感じていようにも見えない。

 十歳になる八雲は、同年代の子に比べて落ち着いた所があるから、時々表情が読みにくいことがあるけど、私はそんな弟に笑いかけた。


「そうよ。少しの間忙しくなるだろうけど、大丈夫。すぐに慣れるわから」


 私、水城皐月みずしろさつきは隣に立つ八雲の頭を撫でながら、眼鏡の奥の目を細める。

 今日から新しい生活が始まるんだから、頑張らなくちゃ。


「それじゃあ、鍵をもらいに行こうか」

「うん」

 

 八雲の手を引きながら、アパートのすぐ横にある家に向かう私達。ここにアパートの大家さんが住んでいるはずだ。

 玄関のチャイムを押してしばらくすると、ドアが開き、中から四十歳くらいの女性が姿を現した。


「お久しぶりです原田さん。今日からお世話になります」

「よろしくお願いします」


 この人がこのアパートの大家さんで、原田(はらだ)和恵かずえさん。

 すると、挨拶をする私と八雲に、そっと笑い返してくれた。


「二人ともいらっしゃい。大きくなったわね」

「まさか、先週も会いましたよ」


 笑いながらそう答えたけど、そういえば八雲と会ったのは、もう少し前か。とはいえ一か月も空いていないはずなのに、それでも原田さんはまるで数年ぶりに会ったかのように八雲の頭をそっと撫でる。


「皐月ちゃんは今年から高校よね。八雲君はいくつだっけ」

「十歳です。春から五年生になります」


 きちんとした言葉で返す八雲。我が弟ながら礼儀正しく育ってくれて、お姉さんは嬉しい。


「二人の部屋は八福荘はちふくそう二階の、201号室ね」


 原田さんはそう言って鍵を渡してきた……八福荘はちふくそう

 聞きなれない言葉に首をかしげると、原田さんはそれを察したのか口を開いた。


「八福荘って言うのは二人が住むこのアパートの名前ね。全部で8部屋あるから八福荘って名前なの。入り口の塀にも書いてあるわよ」


 そうだったっけ。建物ばかり気にしていたから、気がつかなかった。

 私達は鍵を受け取り、指定された部屋へと向かう。原田さんが後で荷運びを手伝うと言ってくれたけれど、「大丈夫です」と言って断っておいた。なるべく、迷惑はかけたくないもの。

 私達は外付けの階段を上ってすぐの所にある201号室の玄関のドアに手を掛ける。


 ドアが開いた瞬間、ほのかに木の匂いが漂った。少し前にクリーニングされたであろうその部屋は、年期が入った外観の割には綺麗だった。

 2Kという、家族で住むには広いとは言えない部屋だけど、これから私たちはこの部屋で過ごして行くのだ。そう思って部屋を眺めていると、不意に八雲が手を引いた。


「入ろう」


 そう言われて、私は無意識のうちに入るのを躊躇していたことに気付いた。鍵は貰ったし、入っていけない理由なんて無いのだけれど、何も無いガランとしたこの部屋が、何だかよその家のような気がして。つい二の足を踏んでいたのだ。


「早くしよう。引っ越しのトラックが来る前に室内を見ておかないと。どこに何を置けばいいか指示が出せないよ」


 まだ小学生だというのに、しっかりした子だ。そんな八雲にせかされながら、私は中へ足を踏み入れる。

 空っぽの室内は空気がひんやりとしていて、当り前だけど生活感が皆無だ。慣れてくればこの部屋に入る時に『ただいま』と言えるようになるのかな。


 もしかしたら、私に躊躇いがあることも気付いたうえで、八雲は背中を押してくれたのかもしれない。

 だとしたら反省しななくちゃ。本当なら姉である私が、この子を支えて行かないといけないのだ。

 だってもう、母さんはいないのだから。

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