第10話 蠢き食らう羽音

 早矢が旅館内を駆ける。

 移動はそれほど苦では無かった。

 少なくとも今この瞬間に限っては。

 ハエ達は今、食事中かうじ虫を産んでいる途中だった。

 邪魔さえしなければ目の前の餌や出産に夢中で、周りの人間に無関心だった。


(丘野君は……)


 とは言え、だ。

 用心して一旦物陰に隠れると、旅館内の地図を開く。


(丘野君のいる場所は……)


 ある場所を目的地として決めると、行き方を頭に入れ、地図をしまう。


(誰にもバレず、どうどうといかがわしい事が出来る場所……つまり、家族風呂!)


 物陰から顔を出し、そっと辺りを見回してタイミングを計る。

 

「………………」


 悲鳴やうめき声は聞かないようにし、恐ろしいハエや、ハエに襲われている人々の姿は視線の端にとらえるだけで直接見ないようにする。

 直接見れば、直接聞けば。

 その瞬間に恐怖で動けなくなる。


「…………すぅ、はぁ……」


 意識して深く息を吸い、吐く。


(…………今!)


 物陰から飛び出し、走り出した。

 

「……ぁ、あぁ……」

「助、け……」


 苦しむ人々の声、助けを求める声。

 不愉快な羽音。


「――っ!」


 そういう耳に入るあれこれには一切意識を向けない。

 向けていない振りをする。

 今は目的地に向かう事だけを考える。


(この先の廊下を……)


 あと少しで目的地に着く、というところで立ち止まってしまった。


「ぅ!」


 廊下の真ん中で、ハエに人が襲われていた。

 襲われていたのは、子供だった。

 小学校低学年位の幼い少年が、ハエに背中から噛みつかれ、食い殺されていた。

 間違いなく死んでいる。

 背に穴が空いており、背骨を噛み砕かれ、そこから臓器を引きずり出されていた。

 遅かった。

 全てが終わっていた。

 それはわかっているし、仮に少年がまだ生きている時に間に合っていたとしても、あのハエ相手に自分が出来る事なんて何も無いという事もわかっている。

 だが、それでも彼女は動けなくなってしまった。

 子供の死という状況そのものが、彼女を動揺させたのだ。

 

「ぁ、あ…………」


 そして、食べごたえの無い細く小さな肢体をかじっていたハエが、もっと大きな獲物、早矢の存在を認識した。




 ブブ、ブブブブ……




 ハエが嬉しそうに羽を鳴らす。


「ひっ!」


 自分が標的にされた、と気付いたが、咄嗟に足が動かない。

 恐怖で体を動かす為の命令伝達が脳から四肢に届かないのだ。




 ブブブブ! ブブブ!




 ハエが透明な羽を羽ばたかせ、早矢に襲いかかった。


「待っ――!」


 待っての言葉が届くわけがない。

 接近してくるその顔に、感情は見えなかった。

 そこには殺気も愉悦も何も無い。

 あるのはただただ単純な生物の本能。

 食欲、繁殖欲。


(丘野君!)


 慈悲も気まぐれも存在しない確実な死を予感し、早矢は会いたかった人の顔を思い出し目を瞑ると、自分の人生の終焉を悟った。




「早矢ちゃん!」




「え?」


 ドン、という衝撃と共に、早矢が床に倒れ込む。

 誰かに抱きかかえられていた。


「日葵ちゃん!」

「はーい」


 耳元で聞こえたのは、少年の声だった。

 早矢の知っている声。

 一番聞きたかった声。

 

「どうして……」

 

 早矢を食べようとして空振ったハエの顔面に、バケツに入った液体がかけられた。

 ハエが宙で体勢を崩し、地面に落下する。

 かけられた液体は特別危険な液体や何かではなく、ただの洗剤を泡立てた物だった。

 ハエの顔は白い泡まみれになっていた。

 目隠しが目的だとするならば不十分で、その泡はハエの目を完全に覆うほどかかりはしていなかった。

 だが、それで十分だったらしい。

 ハエは慌てた様子で前足を使い触覚や目にかかった泡の掃除を始めたのだ。


「早矢ちゃん、立って。今のうちに逃げるよ」


 早矢を押し倒した少年が、彼女を立たせる。


「どう、して……」

「ほら、走るよ」


 手を引かれ、その場から走り出すと二人の少女が後ろから付いてくる。


「センパイの言う通り市川先輩本当に来ましたねー。ここで待ってて良かったですね」

「ところで田畑さん。あなたは今までどこにいたのかな? もしかして一人で隠れてたの?」

「いえいえまさかまさか、まさか」

「どうして……!」


 少年に向かって、早矢が叫んだ。


「どうして全裸なのよ! 丘野君!」

「!?」


 腰に巻いたバスタオル以外何も身に着けていない朝陽が胸元を片腕で隠し、恥じらうように頬を赤らめた。


「そっちの二人もよ! 何なのその格好!?」

「「…………」」


 制服を着ているが頭の先から足の先まで全身びしょ濡れの日葵と、下着を身に着けず旅館の浴衣を羽織っただけのこはるが恥ずかしそうに視線を逸らした。


「俺らもハエに襲われて服着てる暇無かったんだ」

「もうお風呂はハエだらけですよ。あんな中服を取りに戻るのなんて無理ですよ」

「話は後にして。まずは早く旅館の外に逃げなきゃ。ね?」

「え?」


 日葵の言葉に早矢が困惑した声を出す。


「椰子先生達は?」


 朝陽が早矢の手をぎゅっと少し強く掴む。


「あっちはあっちでどうにかなるよ。今から上に戻ってる時間は無い」

「…………」


 それを聞いて早矢が黙り込む。

 冷たいようだが、確かに朝陽の言う通りだった。

 早矢に襲い掛かってきたハエがいたように、そろそろハエ達が次の獲物を探し始める頃だ。

 今から戻るのは危険だ。

 椰子達を心配に思う気持ちはあるが、だからと言って助けに行く勇気は無い。


「……旅館の外に出て、どこに行くの?」


 早矢の小さい声に、朝陽が答える。


「んー、そうだねぇ。とりあえず警察かなぁ」

「……わかった」


 早矢が頷き、走る速度を上げる。

 椰子達の事を信じる事にして、一旦自分達の安全を優先する。


「丘野君」

「ん?」

「助けてくれて、ありがとう」

「うん、どういたしまして」

「……会えて、嬉しかった」

「俺もだよ。俺も早矢ちゃんに会いたかったからここで待ってたんだ。早矢ちゃんならきっと俺を探しに来てくれると思って。こっちから迎えに行ってすれ違いになったら嫌だから動かずにいたんだけど、それで正解だったね」


 嬉しそうに微笑み合う二人だが、二人はまだ知らない。

 旅館の外には旅館内にいるハエよりも恐ろしい存在が無数いて、ここよりも酷い地獄と化している事を。

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