第03話 異常な町
「とりあえず俺の家に行こう。ここから近い」
「え?」
「さっきは信じなくて悪かった、すまん。会長の言う通り、今何かとんでもない事が起きているみたいだ。何が起きているのかはわからないが、わからないからこそ一旦安全な場所に行こう」
ビルの上階から聞こえた悲鳴、そして突如立ち込めた濃い霧。
今が異常事態だという事はわかる。
「あの、安全な場所に行くのなら私の家では駄目ですか?」
「会長の家? 駄目じゃあないが、会長の家はここから遠いだろ? 何か理由があるのか?」
「……リッキーが待っているんです。今日は家に誰もいないので心配です」
「リッキーか……」
リッキーとは桜の飼っている犬の事だった。
真っ白な短毛の秋田犬で、とても賢い雄犬だ。
室内飼いなので霧だろうが何だろうが関係無い気もするが、心配な気持ちはわかる。
「わかった」
斗亜は頷いた。
「じゃあタクシーを拾おう」
「はい」
電車を使わない事に対して、桜は特に反対しなかった。
動く密室の中では何かが起きてもすぐには逃げられない。
電車は危ない。
桜の家がある方向に歩きながらタクシーを探す。
その途中、歩道の真ん中で斗亜が何かを見付けた。
「人が倒れてる」
髪や服装を見ると若い男性のようだった。
うつ伏せの状態でピクリとも動かない。
斗亜が急いで駆け寄り、介抱しようとする。
「おい、あんた。大丈夫か」
近寄り、しゃがみ込んだ瞬間、斗亜の表情が変わる。
「…………? 何だ、これは……?」
首元がガリガリに痩せて、骨と皮だけになっていた。
痩せているからと言ってここまで肉が無くなるものだろうか?
骨に人の皮を被せただけのようだ。
皮が少したるみ、部分によっては骨との間に隙間が出来ている。
「おい……」
そう言って恐る恐る触った感触も、骨と皮だけ。
皮膚が内側でぬるりと滑る。
「…………」
両手で彼の肩を掴み、ゆっくりと体を上向かせた。
「!?」
男性は、痩せていたのではない。
体内の肉が全て無くなり、骨と皮だけにされて殺されていたのだ。
顔は完全に骨の形そのままだった。
目や鼻、口などの顔にある穴から血が流れた跡がある。
その血は乾きかけているが、まだほんのりと湿り気と粘り気を残していた。
「倉……瀬、君……」
「これは一体……」
「倉瀬君……」
「連絡……。警察……いや、先に病院か?」
斗亜がスマホを取り出して電話をかけようとすると、何故か圏外になっていた。
「圏外?」
「倉瀬君……!」
肩をぐいと強く掴まれた。
「大丈夫だ。落ち着け会長。まずは人を呼んで、」
「あれ……」
桜が指をさす。
「あれ?」
指をさしている方を見て、斗亜が固まった。
「あれ……は」
そこには、蜘蛛がいた。
全身からみっしりと毛が生えた、醜悪な姿の蜘蛛が。
だがその蜘蛛、大きさがおかしい。
体高が斗亜の身長と同じ位あるのだ。
「……ぁ……えぇ…………」
そして今、その蜘蛛が食事をしていた。
人を食べていた。
スーツ姿の女性を、食べていた。
蜘蛛は噛みついた女性の背から体液を吸っていた。
獲物の体内に消化液を注ぎ込み、溶かした肉を啜っているらしい。
女性の皮膚がメコメコとへこんでいき、ミイラのようになっていく。
男性の死体は同じように作られたものなのだろう。
「……………」
斗亜が桜の袖を引く。
振り向いた桜に、声を出さず口の動きで伝える
に げ る ぞ
「………………」
桜がこくっと頷き、足音を立てないよう二人でゆっくり、一歩ずつ離れていく。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
桜の足が恐怖で小さく震え、呼吸が荒くなっている。
悲鳴を上げずに済んだのは居酒屋の出来事で事前に緊急事態を把握していたおかげだ。
余裕は全く無い。
緊張が張り詰め、精神はギリギリのバランスで保たれている。
もしも今蜘蛛が二人に気付いたら、恐怖で心を埋め尽くされて冷静さは一瞬で吹き飛び、大声で悲鳴を上げてがむしゃらに走り出してしまうだろう。
(ゆっくり……ゆっくり……)
気付かれたら、終わる。
心臓の音が、流れ落ちる汗が。
自分の体から出る全てが恐ろしい。
何が原因で気付かれるかわからない。
一歩下がる為に上げる足、下ろす足に緊張する。
その一歩をしくじった時に出た音で気付かれてしまうかもしれない。
(霧が濃いんだ……大丈夫。もう少し離れれば蜘蛛からこちらの姿は見えなくなる)
斗亜が桜の姿を確認しながら下がり続ける。
そして、やっと白い霧が蜘蛛の姿を完全に隠した。
時間にすれば三分も無かった位短い時間だ。
だが、その短い時間で二人は汗だくになり、憔悴しきっていた。
「…………行きましょう」
「……あぁ」
蜘蛛のいた方に背を向け、早足でその場から去る。
少し歩くと、道に人影が見えた。
「会長」
「ええ、人がいますね」
話しかける為に近寄る。
「あの」
近付くと二十歳前後の男性二人が話をしていた。
「すっげーマジ何この霧ー」
「電波無ぇんだけどー、えはははは!」
この時間にこの場所にいるだけあって、酔っていた。
実に楽しそうだった。
「すまない、ちょっといいか?」
斗亜が声をかける。
「は? 何あんた」
「えははは、なんか男からナンパされたんだけどー!」
「あの、声が大きいです、聞こえてしまいます。もう少し小さい声でお願いします」
「「はい、承知致しました」」
桜の姿を見た瞬間、二人が背筋を伸ばし真面目な顔になった。
「ちょっと聞きたい事があるんだが、いいか?」
「「…………」」
「少しお聞きしたい事があるんですが、宜しいですか?」
「はい、勿論です」
「何でも聞いて下さい」
「聞きたい事ってのは今のこの状況についてだ」
「「…………」」
「何か知らないか?」
「「…………」」
「今のこの状況について何か知っている事はありますか? あれば教えて頂きたいのですが」
「今の状況?」
「状況ってのは、この霧の事っすか?」
「霧もそうだが、それだけじゃないんだ」
「「…………」」
「……なぁ、お前ら。俺の話聞いてるか?」
「では、今何が起きているのか気付いていないのですか?」
「何が起きてるって……霧、とか?」
「あと電波通じないとかー?」
二人は今の状況を全くわかっていなかった。
「信じられないかもしれないが……」
斗亜が説明を始めようとする。
「倉瀬君!」
だがその時、突然桜が斗亜の事を強く引っ張った。
勢いが付き過ぎて二人一緒に地面に倒れ込んでしまう。
「か、会長、何を」
「早く立って下さい!」
その必死な表情にすぐさま察する。
「うわぁぁああああ!」
「おいお前! 何してんだよ!」
悲鳴と怒鳴り声が聞こえた。
「痛ぇぇ! やめ、離れろ! 助けてくれ!」
「クソ、おい! てめぇいい加減にしろ!」
スーツを着た虚ろな目のサラリーマンが男性の首元に後ろから噛みついていたのだ。
それを見て斗亜の頭に浮かんだ単語は、ゾンビ。
映画やゲームに出てくるあれだ。
「お、おいあんたらも早く手伝ってく――ぎゃぁぁああああああ!」
噛まれている友人を助けようとしたもう一人の男性が、霧の中から現れた別な人間に噛みつかれた。
「倉瀬君!」
「あ、あぁ!」
斗亜と桜が急いで立ち上がる。
「いでぇぇええ! がぁぁああああ!!!!」
「たす、助けでぇぇええええ!!!!」
虚ろな目をした人々がどんどん集まってくる。
そして、男性二人に次々噛みついていく。
噛み千切った肉を彼らは飲み込まない。
ボトボトと口からこぼしている。
どうやらこの行為は食事ではないらしい。
もし彼らが斗亜の想像した通りゾンビなのだとすれば、これはそのウィルスか何かを感染させるのが目的の行為なのだろう。
だから噛みついて負傷させるだけで十分なのだ。
「逃げるぞ会長!」
「あ、は、はいっ」
薄情なようだが、早々に見切りをつけて二人が逃げ出す。
まだ死んではいなかったが、怪我と出血で男性二人の動きが鈍くなると、満足したのか彼らは次の獲物として斗亜と桜の方を見たからだ。
「一体今、何が起きてるんだ?」
「………………」
斗亜の問いに答えられる者は、いない。
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