締太郎とアリーシャはゆっくりとオアシスのほとりへと歩んだ。

 締太郎は興味深そうにあちこちを観察している。アリーシャはぎこちない足取りでオアシスの片隅に鎮座する石碑の下へ向かう。

「それは……?」

「これは、このオアシスの要石のようなものです。村長である祖父はこれを封じの岩と呼んでいました」


「封じの岩……」

 締太郎の目がぎらりと光る。背を向けるアリーシャは気づかない。

「この岩を護り清めることが村長の使命……今では、わたしの仕事なんです」

 締太郎は岩を囲む張縄に触れた。それは手入れが不十分なのか大きくたわんでいた。

「あ、触れてはなりません!これは村のもの以外は触っては……」


「村……ね。そんなもの、どこにあるんだい?」

 締太郎の言葉にアリーシャは硬直する。

「なにを……なにをおっしゃるんです」

「なにを?君が最初に言ったんだよここは村だった場所だってね」

「それは……それとこれとは関係ありません!」


 締太郎は縄を触る手を止め、アリーシャへと向き直る。

「やはり君はそうだ、縛られている」

 アリーシャは思わず服の下の縄に手を当てる。

「そ、それは貴方が」

「違う違う、そうじゃないよ」

 締太郎は愉快そうに昏い笑顔を浮かべる。


「アリーシャ、私が縛る以前から君はこの土地に、砂漠に縛られているのさ」

「わたしが、砂漠に縛られている?」

 締太郎は麻縄を手にアリーシャに近づく。

「そうさ、君は知らないうちに……」

 締太郎はアリーシャの腕を取り優しく麻縄を巻きつけながらそっと囁いた。


「ああ、締太郎様、何を……」

「じっとしていて……」

 締太郎の言葉を聞くまでもなく、アリーシャの体からは抵抗する力が抜けていた。

 締太郎は優しく、だが有無を言わさぬ強さでアリーシャの両手を縛り、肩を抱いた。

「君は危なっかしいからね、縛られていなければ立っていられないほどに……」


 締太郎はアリーシャの手の縄を近くのサボテンに結びつけた。

「ふむ、君の美しさには釣り合わないモチーフだが……我慢してくれないかい」

「締太郎様、どうして……」

「私はこの砂漠を縛りに来た。だが……私の作品を完成させる前に、不出来な結び目を解いておかなくては私の仕事に瑕ができる」


 締太郎は再び封じの岩へ向かう。

「ああ、待って締太郎様!」

 だがアリーシャがいくらもがいても、締太郎の縄手錠は解けない。無理に解こうとすれば、嫉妬に狂う女のようにサボテンの棘が彼女を苛むだろう。

 締太郎は手にした麻縄を手に巻きつける。一瞬のうちに、縄で編まれた手甲が出来上がった。



「さあ、仕事を始めよう」



 締太郎は静かに唱える。ここから先は、全て彼の作品となる。

 締太郎は封じの岩のたわんだ張縄を掴むと、勢いよく引きちぎった。

 瞬間、封じの岩から生臭い空気が流れ出す。登り始めたはずの朝日は色を失い、凍りつき始める。

 生命の泉はもはや枯れ果て、先刻まで太陽であった空の穴より、名状しがたき怪物が現れた。


「ああ……なんてこと……」

 アリーシャの眼に強い恐怖が浮かぶ。

 現れたそれは腹部からボトボトと腐肉をこぼしながら砂漠の大地に降り立った。

 不快な風に背中の触腕がなびき、あたかも翼を持つかのようであった。

「あれがお祖父様の言っていた砂漠の悪霊……ゾヘス……!」


「KUUUAH!!」

 砂漠の悪霊・ゾヘスは身の毛も凍り付く雄叫びを上げ、8つの眼球で締太郎を睨みつける。

 対峙する締太郎が腕を振るうと、縄手甲から3本の縄の端が飛び出した。

「ふむ、凡そ尋常の生物ではないが、脊椎動物であればなんの問題もない」

 締太郎は平行に張った縄の間からゾヘスとの距離を測る。


「喜びたまえ、君も私の作品にしよう」

「WRRRAHHH!」

 ゾヘスが砂漠の砂を蹴る。10m級の巨体に似合わない俊敏さで締太郎へと飛びかかった。

「ふん!」

 締太郎は麻縄をより合わせ一本の太縄にすると、ゾヘスの爪撃を受け止めた。


「締太郎様!危ない!」

 サボテンに繋がれるアリーシャが叫ぶ。

 ゾヘスの背中の触腕が広げられ、締太郎を絡めとる。

「ああっ!」

 ゾヘスの触腕がしめ締太郎をぎりぎりと締め上げる。そのまま背骨をへし折るつもりなのだ。

「KUUHHH」

 ゾヘスの濁った眼球と、締太郎の視線が絡み合う。


「…………ふふ」

 締太郎は昏く笑う。

「この私に……緊縛師に縄で挑む気かァッ!!」

 締太郎の喝破にゾヘスがわずかに怯む。

 締太郎は締められながら全身に力を込め始める。少しずつゾヘスの拘束がこじ開けられ始めた。

「WRRR?」

 ゾヘスの眼に戸惑いが浮かぶ。


「ぬううああーーッ!!」

 締太郎の両腕に縄めいた筋肉が浮かび上がる!

 驚くべき膂力によって、ゾヘスの触腕が引きちぎられた!

「SYYYAAAHH!」

 引きちぎられた触腕から鮮血がほとばしる。

 締太郎は返り血を浴びながら、縄をゆっくりと構え直した。


「さあ、どこから縛ろうか」

 締太郎がのたうちまわるゾヘスへ油断なく近づいて行く。

「駄目!締太郎様!ゾヘスに近寄っては!」

 アリーシャの叫びが響く。締太郎が眉をひそめたその時、ゾヘスの口がガバリと開かれた。

「これはッ!」


 締太郎は目撃する。ゾヘスの口腔内に潜んでいた、第9番目の邪眼を。

「縛眼かッ!」

 縛眼、或いはイーヴルアイ。この世ならざる者の中にはその瞳で見つめるだけで相手の自由を奪う事ができるものがいる。

 ゾヘスの邪眼もまた、そのひとつであった。


「どこまでも緊縛師を舐めてくれる……」

 だが締太郎の体の自由は確実に奪われていた。

 ゾヘスは邪眼の視線を外さず、ゆっくりと締太郎に近づいていた。

 アリーシャはその光景を遠目に見る事しか叶わない。

 彼女は無力感に苛まれた。


「ごめんなさい……締太郎様……お祖父様……」

 アリーシャは力なく締太郎を見つめた。

 締太郎もまた、アリーシャを見つめていた。

 アリーシャは息をのんだ。ずっと昏く淀んでいた締太郎の目は、今はただ美しく澄んでいたからだった。

 締太郎は目で語りかける。

【君は本当に動けないのかい?】


「無理です……この縄に繋がれていては……」

【君を縛り付けるものは、なんなんだい?】

「わたしは……」

 アリーシャは己の手を見る。彼女は捕らわれている。麻縄によって。

 アリーシャは己の身を省みる。彼女は囚われている。砂漠の因習によって。

「わたしは守らなくちゃ……お祖父様との約束を」


【よく見てごらん、君を縛り付ける、本当のものを】

 アリーシャはもう一度腕を見つめる。彼女を縛り付けるのは、か細い麻縄だ。

【歪んだ結び目ほど解き難く、恐ろしく見えるものだ。だけど、解けない結び目なんてないんだ】

 アリーシャはもう一度腕を見つめる。彼女を縛るものは……


「わたしは……」

 アリーシャの目には、いつでも引きちぎれそうなか細い糸が巻きついているだけだった。

「わたしを縛っていたのは……わたし自身」

 アリーシャは腕に力を込める。

「締太郎様っ!」

 アリーシャを縛っていたものは、あっさりとちぎれ、彼女は自由になった。


「締太郎様ーっ!」

 アリーシャは駆け出す。サボテンの針が彼女を傷つける。服が引き裂かれ、締太郎に施された緊縛が露わになる!

 ゾヘスは締太郎の首筋に、今まさに牙を突き立てようとしていた。

 アリーシャは意を決して、2人の間に割り込んだ。


「……っ!」

 アリーシャはぎゅっと目を閉じ、己の身に突き立てられる牙を想像した。

 だが、いつまでたっても想像した痛みはやってこない。アリーシャは恐る恐る目を開いた。

「これは……?」

 アリーシャは、目の前で見えない壁に向かって牙を突き立てているゾヘスを見た。


「……いっただろう?君にお礼をしたって」

 アリーシャの後ろで締太郎が囁く。露わになったアリーシャの体に施された締太郎の緊縛縄が、白く光り輝いていた。

「締太郎様、これは」

「結び目とは鍵。縄は境界線。正しく意味のある結びは、力を持つ」

 ゾヘスはアリーシャの縄によって遮られているのだ。


「はっ、締太郎様、お体は?」

「うん、全て君のおかげだ、ありがとう」

 締太郎はアリーシャの頭を撫で感謝の言葉を囁く。

 すでにゾヘスの邪眼は、アリーシャの体によって遮られていた。

「もう少しだけ、目を閉じていてごらん」

「……はい」

 アリーシャは素直に目を閉じた。全身の縄の感触から、締太郎を感じた。


「さらばだ、砂漠の悪霊よ。君は少しばかり、厄介な作品だった」

 締太郎は腕を伸ばし、ゾヘスの首に縄を巻きつけた。

「もう少し美しければ、或いはきちんとした作品に仕上げる気にもなるが……生憎、今私が仕上げたいものはほかにあるからね」

 そして締太郎は両腕に力を込めた。


「せめて最期は、私の手で」

「KUUUAAAAHHHH!!!」

 締太郎の両腕が大きく開かれる。

 ゾヘスの首筋に巻かれた縄が窄まり、そして圧倒的な膂力によって砂漠の悪霊の首は切断された!

「AAAAAA!!!」

 見えない壁に阻まれ、アリーシャはゾヘスの返り血を受けることはない。

 締太郎の両腕だけが、砂漠の朝日を受けて真っ赤に輝いていた。


 締太郎とアリーシャの2人は、しばらくその場でぐったりと座り込み、無言でお互いの体温を感じていた。

 最初に異変に気が付いたのは、アリーシャであった。

「これは……水?」

 オアシスの本来の水位よりも上まで、水が溢れ出していた。


「大地の流れが変わったようだ……」

 締太郎は両手で水を掬いながら呟いた。

「……行きましょう、締太郎様」

 アリーシャは立ち上がる。締太郎も立ち上がるが、アリーシャと反対方向、オアシスの中心へ向けてどんどん歩いていった。

「締太郎様、どうされたのです?」


「まだ私の作品は完成していない」

 締太郎は振り返らず、一言だけ放った。

「それは一体……?」

「私は砂漠を緊縛しに来た。その目的を果たすまでは帰らないさ」

 締太郎はオアシスの本来の淵で立ち止まると、手甲を整え直した。

「もう良いではありませんか!」


「君はもう行きたまえ、もう君を縛るものは何もない」

 締太郎は指を鳴らす。

 アリーシャをずっと緊縛していた縄が切れ、彼女の柔肌からするりと抜け落ちた。

「……ああっ!」

 突然緊張から解放されたアリーシャは、その場にへたり込んだ。


「縄の跡を感じるかい?風で、肌で、心で感じてごらん」

 アリーシャは、全身に刻まれた締太郎の感触に身を震わせた。

「君は自由だ。私が縛る前よりも、今はずっと」

 締太郎はアリーシャに笑いかけた。

「締太郎様……」


 オアシスがより沸き立ち始める。

 締太郎は、最早振り返らず水底へ向けて歩みを再開した。

 アリーシャが手を伸ばしたその瞬間、どこにそれほどの水が蓄えられていたというのか、空に向けて滝が落ちるかのように水が噴き出し締太郎を飲み込んだ。


「締太郎様ぁーーーっ!!」

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