破
「ん……」
額に当たる布の感触に、締太郎は目を覚ました。
石造りの天井と、窓から差し込む光。そして、濡れた布巾で締太郎の額を拭う、少女の手が見えた。
「よかった……お目覚めになったのね」
締太郎はゆっくりと体を起こす。
「ここは……」
締太郎の体には、新しく巻かれたであろう、真新しい布が巻きつけてあった。
包帯のつもりだろうか。たどたどしい結び目だ。締太郎は目をひそめた。
「お体が傷みますの?」
少女が不安げに話しかける。
締太郎は無言で包帯の結び目をほどき始めた。
「あっ!何をなさるの?」
少女の静止を無視し、締太郎は包帯を一度取り去り、自分の手で巻き直し始めた。
「まあ……」
少女の目が驚きに見開かれる。締太郎の手つきはまるでよどみなく、たどたどしかった少女のそれとは似ても似つかぬ程に精緻に包帯が巻かれてゆく。
「……布も縄も、縛るという意味では同じだ」
「えっ?」
少女の問いには応えず、締太郎は包帯の端をきっちりと結んだ。
「……どうやら世話になったようだ、ありがとう。私の名は、荒縄締太郎。少し旅をしている」
「しめたろう……様、ですか。わたしはアリーシャといいます」
少女は――アリーシャはそういうとほほ笑んだ。柔らかな陽射しのような笑顔であった。
「私は……どれほど眠っていたのかな」
「わたしが締太郎様を見つけたのは早朝のことでしたが……今はお昼の三時過ぎですわ」
締太郎は窓の外を見る。照りつける太陽は昨日と変わらない。もしアリーシャが締太郎を見つけていなかったなら、締太郎は砂漠の砂の仲間になっていただろう。
「そうか……キミは命の恩人だね」
締太郎はアリーシャに向けてほほ笑んだ。
初めて見る締太郎の柔らかな表情に、アリーシャは頬を赤らめる。
「ここは……集落かい?」
「え、ええ。ここはカメリアという小さな村……だった所です」
「だった……?」
「元々小さな村だったんですけれど、村長だったわたしの祖父が亡くなって以来、少しずつ村を離れる人が増えて、今ではわたし一人だけなんです」
「なるほど……どうりで人の気配を感じないわけだ」
「でも安心してくださいね。水はオアシスが近くにありますし、作物だって、お客様にお出しできるくらいにはありますわ」
「キミは……どうしてそこまで私に良くしてくれるんだい。このただの行き倒れに」
「何故って……ええ、きっとわたし、一人でさみしかったんです。話し相手が欲しかった」
アリーシャは目を伏せた。果たしてこの少女は、どのくらいの時間、この砂漠で孤独に過ごしてきたのだろうか。
「どうして……キミはここを離れないんだい?」
「それは……おじい様の言いつけもありますし……」
アリーシャは言いよどむ。締太郎は、彼女の伏し目がちな視線に、引っ掛かりを感じた。
「キミは……どうやらこの土地に……」
ぐうう
締太郎の腹が鳴った。
「あら」
「おや……」
「ええ、いま何か食べるものを持ってきますわ」
そういうとアリーシャはベッドを離れた。
「…………」
締太郎は淀んだ瞳で、じっとアリーシャを見つめていた。
「とにかく、今は水分を。今朝とれたサバクイチゴです。新鮮ですわ」
皿に乗せられているのは、黄色い小ぶりな果実であった。
締太郎は一口にほおばる。
「うん……甘い」
「よかった、お口に合いますのね」
「ああ……生き返るような気分だよ」
締太郎は再び口元をほころばせた。
「ありがとう……アリーシャ。キミに……お礼をさせてもらえないかな?」
「まあ、お礼だなんて。わたしも本当に久々に人と話せただけで充分ですわ」
遠慮するアリーシャ。だが。
「えっ?あっ」
突然、締太郎はアリーシャの手を掴んだ。
「締太郎様、何を」
「大丈夫……私にすべてをゆだねて」
耳元で締太郎がささやく。いつの間にか彼の腕には幾束もの麻縄が握られている。
「締太郎様?あの……」
アリーシャは動揺を隠せない。
「大丈夫……私の目を見て……」
アリーシャは締太郎の瞳を覗き込む。
吸い込まれるような、どこまでも深い黒。
アリーシャの意識は、黒い渦の中へ吸い込まれていった。
――――――――――――
「…………」
「……っ」
「…………」
「………あっ」
「…………」
「…………はぁっ」
「…………」
「ああっ……」
「……美しい」
「締太郎様……これは……」
「安心して……キミは今、芸術になっているんだ……」
「芸……術……?」
「そうさ……」
「でも……これって……」
「さあ……仕上げだ……」
「締太郎……様っ……!」
――――――――――――
「さあ……服を着てごらん」
アリーシャは言われるがままに服を身に着ける。
普段と何も変わらない。外から見ればそうかもしれない。だが。
「どうかな……?」
「なんだか、わたしがわたしじゃなくなったみたい」
「そうさ……キミは今、キミ以外の者によって立っている」
アリーシャは、服の下に感じる締太郎の縄を、布の上からなぞる。
「キミは今……半分はキミじゃない。いや……それ以上かも」
「わたしはわたしじゃない」
「そう、キミは今……私に縛られている」
「縛られて……」
アリーシャは上気した頬をなでる締太郎の指を、うっとりと見つめていた。
「締太郎様……」
アリーシャが再び締太郎の瞳に吸い込まれそうになったその時、窓からの風がアリーシャを現実へと引き戻した。
「えっ?あっ、わ、わたし……!」
「おやおや」
締太郎はアリーシャの頬から手を離した。
「そ、その、えっと……」
「お気に召してくれたかな?私のお礼は」
「こ、これが、お礼?」
「そうだよ……」
穏やかに言う締太郎の瞳は、最初に合った時から変わらず、昏く、深い。
アリーシャは急に締太郎が不気味に思えてきた。
「わ、わたし、水を汲んできます!」
「では、一緒に行こう」
「い、いえ!一人で大丈夫です!」
「ダメだよ……恩人にばかりは働かせられないよ」
締太郎は静かにほほ笑むのだった。
――――――――――――
結局、早朝の砂漠をアリーシャと締太郎の二人は連れ立って歩いていた。
「……んぅっ!」
歩くたびにアリーシャの体に食い込んだ縄が軋む。肌寒い早朝の砂漠でありながら、アリーシャの肌はすっかり火照っていた。
「……はぁっ」
なぜ縄を先に解いてこなかったのだろう。いや、きっとこの男に止められてしまっただろう。
アリーシャは自分にそう言い聞かせ、ただひたすらオアシスへの道を歩く。
締太郎はただ無言でアリーシャの後を歩く。
「…………」
「……あっ」
アリーシャが砂に足を取られる。危ない。
そう思った瞬間、アリーシャは締太郎に抱きとめられていた。
「…………」
「あ、ありがとう……」
締太郎は無言でアリーシャを解放した。
そしてしばらくして、オアシスが見えてきた。
「あそこがオアシスですわ」
「……ほう」
締太郎がようやく口を開いた。
「締太郎様?」
「くくく……なるほど……くくく」
締太郎は笑みを隠せない。それは見ようによっては無邪気で、あるいは邪悪な笑みだった。
「そうかそうか……くくく」
アリーシャは不思議そうに見つめる。
そうか、なるほど。得心した。
砂漠が女体であるならば、砂漠には女体としての機能がある。
そこは死の影が常にある砂漠において、唯一生命を感じさせる場所。
生命が生まれ出づる地。
「ああ、成程――」
砂漠における命の泉オアシス。
そうか、ここが――
「ここが砂漠のほとか――」
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