第18話
先生が再び、貴子の頬をぶった瞬間、私の胸の中で赤い風船が破裂した。ほとばしる激情に身を任せて、ふたりだけの密度の濃い部屋の中に侵入すると、ふたりの赤い目玉が私の身体に突き刺さった。先生は私のことを覚えていたのか、その目玉は大きく見開かれた。もう迷うわけにはいかなかった。
私は貴子の細い手首をとって、一目散に駆け出した。貴子の声が後ろに聞こえていたけれど、気にとめず、何も考えることなく、ただ右足と左足を交互に前に出すことだけに集中した。マンションの階段を下りると、満月が白い光を放つ、幻想的な夜がそこに広がっていた。私のものだけではない呼吸音が、すぐ近くに聞こえていた。二人分の手汗でじっとりと湿っていたけれど、私たちはお互いの手を離すことはしなかった。貴子は息をつく私の隣で、大きく伸びをして、ため息をつくように言った。
「なんだか、まだ、夢の中にいるみたい」
「夢じゃないよ」
「だってね、佳苗が私の手を取ってくれた瞬間、世界の色が変わってみえたの。あの家からここまで走ってくるまでの間、生まれて初めて生きてるって感じがしたの。佳苗はきっと、私の神さまなんだね」
大真面目にそんなことを言って微笑む貴子の横顔を見ていた。つくりものじゃない、寂しそうでも悲しそうでもない、月の光に照らされる貴子のほんとうの笑顔に、あふれそうになる涙を堪えるのに私は必死だった。闇の中からあなたを助け出すことがすべてだと思っていたけれど、多分そうじゃない。これから先、彼女のために私にできることは、何だってしてやりたいとさえ思った。それはまさに、私の身も心もすべて投げ出しても良いと思えるほどに。
その夜、貴子は私の家にやってきた。普段私が食事をして、排泄をして、本を読んで生活している場所に、貴子がいるということに、一週間が経過する頃になっても、慣れることはできなかった。けれどもそれは決して嫌な感覚ではなく、むしろ貴子が私の目の前にいるということが、どれだけ私の心を安らかにしたか分からない。
*
貴子はよく、私のことをストーカーみたいだと言って笑った。
底冷えのするさむい夜、私たちはひとつきりしかない掛け布団にくるまりながら、互いの身体を寄せ合っていた。私の胸に頬を寄せた貴子は、吹雪のような静けさをたたえた声でささやいた。
「ねえ、佳苗は、私のことが好きすぎるね。だって私がいなくなったら、きっと佳苗も一緒に死んでくれるでしょう」
そのあまりのナルシストぶりに私は苦笑したけれど、貴子の言うことは尤もだった。少しの間離れていただけで片腕を切られたようなつめたい哀しみが全身を襲ったのだ。貴子がこの世界から消えてしまったあとのことを想像するだけで、心が凍りつくようだった。
「そうかもしれない。だから貴子、ずっとこの家にいてね。私のそばから、永遠に離れないでいてね」
貴子は何も言わず、ゆっくりと私の髪の毛を梳いた。はっきりとした返答がなされないだけで不安になってしまう私は、この頃あなたの優しさにひどく甘やかされているようだった。
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