第17話
それは私の初めてのプロポーズだった。世間の男たちは皆、吐きそうな緊張とともに指輪を差し出しているのだろうかと考えながら、私は貴子の瞳を見つめ続けていた。部屋の中はひどく静かで、自分の心臓の脈打つ音がひたすらに聞こえつづけていた。貴子はしばらく黙っていた後で、小さくてか細い声で「ダメだよ」とたよりなく言った。
「そんなの、できない。できるわけない」
「どうして?私だったら、貴子のこと、世界でいちばん幸せにできるよ」
「ダメだよ。だって先生には、私しかいないもの。先生には私が必要だから」
「先生の話なんてしてないよ。ねえ、貴子の中には、これから先もずっと、先生しかいないの?貴子。貴子は一体、これから、どうしたいの?どんな風に生きていきたいの?」
必死の思いで語りかけると、貴子の瞳の中の光が迷うように揺れた気がした。怯えたような顔で、首を左右に振る貴子の肩を、私は何度もつよく揺さぶった。
「貴子。いい加減に目を覚まして。絶望することを諦めて、暗闇に取り残される感傷をきらいになって、どうか健康的になることを怖がらないで。生きていくってそういうことだよ」
「無理だよ。だって私は暗闇が好きなの。光はまぶしくて怖いから」
いつの間にか私の頬には一筋の涙が伝っていた。
「私、あなたのことを助けたいの」
長く重い沈黙の後、貴子は苦しそうに顔を歪めた。
「ねえ。ずっと、佳苗は、そうなの?」
貴子の両頬に、透明な液体が伝う。彼女の目の中に、目を赤くした私の顔が写り込んでいた。突然、悲哀と幸福の華が胸の中に激しく咲き誇った。私はこの感情をずっとあなたに打ち明けたかった。あなたが決して、私の差し出した手をとってくれなかったとしても。
「そうだよ。私、貴子のことが、ずっとずっと好きだったよ」
そしてどちらからともなく、私たちは互いの唇に接吻した。うっとりと憂いを含んだ瞳で見つめ合う、あまりにも優美な時間はしかしすぐに終わりを迎えた。玄関をつよく叩く音に、私の身体を押しのけるようにして距離をとる貴子のその行動が、私にはただただ悲しかった。
「佳苗。ごめんね、今日はもう帰って」
貴子が玄関から取ってきた、二足のコンバースのスニーカー。その中に足を突っ込んで、ベランダの外に出る。何度となくこういうことが起きて、その度に私は彼女の世界から締め出されてきた。けれども嫉妬に身を焦がしていた今日の私は窓から見えないところに身体を隠して、先生と貴子のやり取りを観察することにした。先生の身に纏う雰囲気はあの頃とまるで変わらない。変わったところと言えば、後頭部の毛が少し薄くなったくらいだろうか。
先生は部屋の中に入ると、いきなり貴子の頬をぶった。突如開始される理不尽な暴力に貴子は慣れているのか、努めて平然とした表情で先生を見上げて、痛々しく微笑んだ。両親に捨てられないようにと必死に取り繕ったようなその表情を見た瞬間、私の胸が軋む音が聞こえた。先生はそれでも尚怒りが収まらないのか、部屋中のものを順々に薙倒していった。食器の割れる音、本棚が倒れる音があたりに響き渡った。理由のない激昂に感情を支配されているのか、先生は人間でない異形のものにさえ見えた。貴子は部屋の隅で小さな子どものように体育座りをして、じっと先生の様子を伺っていた。
数十分して、部屋の騒音は治まった。先生は縮こまっている貴子の方へ近づいて、ゆっくりと膝をついた。私はその様子を息を詰めて見つめていた。
「どうして、ベッドで寝ていないの。僕はあれだけ、動くなって言ったのに」
言葉尻は穏やかだが、声の音色は小刻みに震えていた。青い炎に似た先生の静かな怒りが、部屋の中に充満していく。先生は貴子の長い黒髪を撫でながら、「お仕置きが必要だね」と言った。貴子がいやいやをするように首を振ったのが見えたような気がした。
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