第16話


 あれから何度か恋をした。貴子とはまるで異なる空気をまとっている癒し系の女の子を好きになり、どちらからともなく接近し、ふわふわとした蜜月を超え一緒に暮らすようになったりした。やわらかなそよ風のような女の子たちのことを私はほんとうに心から愛していたのだけれど、別れるときに決まって言われる決まり文句があり、それは「きっと佳苗は私じゃだめなんだよ」という言葉だった。その言葉を口にされる度、鼻先にバニラの香りが漂うような気がした。貴子の呪いは、幾度年を重ねても決して自力で解くことのできない魔法のようだった。


 そして今、私がこの場所に戻ってきてしまったことを、自分がどのように感じているのかさえ、掴み取ることが難しい。愛情と憎悪がどろどろに溶け合って、貴子に対するこの執着が一体何処からくるものなのか、もはや私には分からなかった。カップラーメンや弁当の容器、ペットボトルが乱雑に置かれ、一歩歩く度髪の毛が指に絡まる荒れ果てた部屋。その部屋の中央に置かれた茶色いシミだらけのシーツに包まってねむっている貴子の手の中には、心療内科から処方されたハルシオンの錠剤を握られていた。恋をしらない潔癖な少女のように安らかな寝顔を見つめながら、彼女の黒々しい長髪をやさしく梳いていると、炊飯器のご飯が炊ける音が鳴った。


 「おいしい」と言う声を聞いて、私はようやく安心して自分の箸を手に取った。自分以外の人間にご飯をつくるなんて随分久しぶりのことだったから、心配だったのだ。海苔を巻いた卵焼きと大根をたっぷり入れた味噌汁、鳥の照り焼き。冷蔵庫にしまわれていたものを使ったあり合わせの食事を、こちらが申し訳なくなるくらい嬉しそうに、貴子は口に運んでくれた。


「すごいのね、佳苗は。こんなの作れるなんて」

「最初は全然駄目だったけど。一人暮らししたら、まあ、それなりに。貴子は料理、しないの?」

「あの人ね、オムレツが好きなの。洋食屋さんで出てくるような、卵をみっつ使って、ちゃんとしたバターで包んだオムレツ。それをね、一度つくってみたことがあるの。でも、こんなもの、犬も食わないって言われちゃった。きっと端のほうが焦げてたのが、気に入らなかったのね」


 貴子はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。眼帯に出来た組織液の染みが、以前より濃くなっている。そろそろガーゼを取り替えたほうがいいかもしれないと思いながら、味のしない卵焼きのかけらを口に入れる。


 再会して、一週間が経とうとしている頃だった。


 食器の洗い物を終えると、貴子はソファに座って一人ぼんやりとしていた。沸かしていたお湯で茶葉を溶かして、二人分のカップに注ぐ。貴子の目の前にマグカップを置くと、まるで私がここにいることを失念していたかのような驚いた顔に見上げられて、少なからずショックを受けていた。

 それでも意を決して、私は貴子の目の前にある椅子に腰掛けた。


「私の家に、おいでよ、貴子」

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