第13話


 いずれ終わりが来ることをお互い知っていたからこそ、私たちの蜜月は眩しく光っていた。貴子と私の友情なのか恋愛なのか名前をつけられない怠惰で密着した関係に亀裂が入った理由は良く分からない。

 分かっていることは、先に私に見切りをつけたのはやはり貴子の方だということだけだ。

 

 ある日の夜のことだった。

 醤油がきれたから買ってきてというお母さんの頼みを二つ返事で受けてしまった私は自転車をこぎながら夜風に洗い立ての黒髪を吹かせていた。コンビニで390円の醤油を買って、家までの帰路へと足を踏み出したとき、田んぼの真ん中を通る二人のアベックを見つけた。私と年のそう変わらなさそうなおさげの女の子と、頭のハゲ散らかった男の組み合わせは異様だった。肩を抱き合う二人の背中からは、性的な匂いがした。もしかしたら、もしかしたら。嫌な予感に心臓が高まるのを感じながら重くなったペダルを踏むと、女の子の被っていた麦わら帽子が強風に吹かれて空高く舞い上がった。


 寂しそうに微笑むその横顔を、私は確かに知っていた。


 気づけば右足は田園の新緑を踏みつけにしていたし、背後からは自転車がコンクリートに倒れこむ激しい音が聞こえた。ぽきりと折れてしまいそうな手首を掴むと、やけにめかし込んだ貴子は驚いたような顔をして私を見た。丸く円を描いたまつげが小さく震えている。

 この田園の先に何があるかは知っていた。私とあなただけの秘密だと思っていた場所。そんなところにひとりきりで、行かせたくなんてなかった。それが私のエゴでも、独り善がりの勘違いだったとしても。

 

 乱暴に荷台に貴子の身体を乗せて、つよくペダルを踏むと、男は私たちの前に立ちはだかった。右手でピースサインを作って、私たちに見せつけるように何度も降る。貴子は男ではなく、私だけを見ていた。


「ねえ君たち。二人なら、ゴム有りホ別7でいいよ。どう?」


 自然に口角が持ち上がる。煮えたぎる怒りのエネルギーを足の裏に込めたまま、男の身体を田園に勢い良く突き落とすと、高い悲鳴をあげた男の腕がばしゃばしゃと水を切った。眼鏡はズリ落ち、白いYシャツは泥色に染まっている。


「何あれ。交尾中のカエルみたい」


 何でもないような顔をして貴子がそんなことを言うので、私は思わず吹き出した。だけど笑ったことをすぐに後悔して、ハンドルを握りなおした。そんな私の心境を貴子は察しているのか、自転車が貴子の家の前で止まるまで、それきり何かを言うことはなかった。


「ありがとう」

「ううん」

「じゃあ、また学校で」


 それだけ言うと、私に背を向けて、貴子は家の中に入っていこうとした。堪えきれずに、背中に向かって「どうして」と叫んでしまうと、貴子は悲しそうな顔で振り返った。後悔と不安がにじむような、そんな顔をするくらいなら、最初から裏切らないでほしいと思いながら、私は貴子の目に浮かぶ涙を右手の人差し指で滑らかに拭った。私が何かを尋ねる前に、先回りして貴子は呟いた。


「佳苗、怒っていいよ」

「怒らないよ」


 貴子は俯いた。ローファーのつま先を見つめて、こすり合わせている。


「私ね、あのね、佳苗じゃ足りないの」

「うん」

「だから、ごめんね」


 初めて、貴子の唇から本当の声が聞けたような気がした。深く息を吸って、吐く。うつむいて、目を閉じて、ゆっくりと開く。張り裂けそうな胸を押さえながら、力を振り絞る。


「貴子、さよならだね、私たち」


 貴子の目に映る私は、どんな顔をしているのだろうか。貴子の目から大粒の涙がこぼれ落ちていたけれど、私は踵を返して、二度と彼女の肌に触れなかった。一人きりの帰路は普段よりずっと距離があるように感じられて、私はその長い間いつまでも、貴子が私にしてくれた夢の話を思い出していた。いつかの夕暮れの教室を。シャボン玉みたいに儚くて、嘘みたいに幸せで、決して実現することのない夢物語を。


 それから、私と貴子の間には、文字通り、何にもなくなった。廊下で顔を合わせても、事務的な問答を繰り返すだけで、互いの心の機微に触れるようなことはなかった。肌の輪郭を溶かし合う程側にいると思っていたのに、たちまち私たちは他人になってしまった。そんな感傷をいつまでも忘れられないのは、きっと私の方だけなのだろう。


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