第10話


 立ち入り禁止のテープが張り巡らされているラブホテルは、山の麓から見上げた時よりもずっと迫力があって足がすくんだ。貴子は一切躊躇することなく、腰をかがめてテープの真下をくぐり抜けて、私の方へ手を伸ばした。心を決めて、森林の湿った空気を肺に溜め込む。幽霊なんて信じてるわけじゃないけど、メッキの禿げた古城の雰囲気にやられたのか、手先は冷たくなっていた。


 蜘蛛の巣を手で振り払いながら、スマホのライトだけを頼りに進んでいく。歩くだけで床は軋み、いずれ踏み外してしまいそうなくらい水を含んで柔らかくなっていた。玄関から入って二階の階段を上る途中まで、貴子は一切口をきかず、前だけを見据えていたけれど、203号室と書かれた表札の前で足を止め、「ここ、入ろう」と静かに言った。私は黙ったまま、ドアノブに手をかけた。


 割れた窓ガラスからは、涼しすぎる風が吹き込んでいる。部屋の中には灰色に変色したベッドが一台設置されていた。かつて何人ものカップルがこのベッドの中で肌をすり合わせてきたのだろう。

 部屋を見回しても、とりたてて異変はなく、私はほっとして、スプリングが伸びきっているベッドに腰掛けた。やわやわとした布地が、私の腰周りに合わせて体型を変える。


「そこでお母さん、死んだのよ。SM好きなお父さんに手錠で縛り付けられたまま、おもちゃを中に入れたままね。みっともないでしょう、最後まで」


 やけに楽しそうな口ぶりに、身体を硬直させた。このベッドの上で死んだ人がいる、と考えただけで、腕の表面が粟立つ気がした。追い打ちをかけるように、貴子は言った。


「ここで、しようよ」


 貴子が何を言っているのかわからず、「え」と私の唇から間抜けな息が漏れた。


「なにを」

「セックス。したいんでしょう。その代わり私のこと、壊れるくらい愛してね」


 その言葉に、私の全身の血が燃え滾り、顔中に広がっていくのが分かった。明るすぎる月光に照らされる貴子の白い顔を見つめながら、至極当たり前の言葉を口にする。


「貴子は先生のことが好きなんじゃないの」

「好きだよ」

「じゃあ、どうしてそんなこと言うの」

「いいじゃない。好きな人としかしちゃいけないなんてルール、ないでしょう。本当につまらないのね。相変わらずあなたといると、欠伸が出そうなくらい退屈だわ」


 貴子はベッドに腰掛けると、上目遣いで私を見上げた。

 はっきりと、馬鹿にされている。いや、もしかしたら挑発だと分かっていながら、毒牙にかかりに行ったのは私の方だったのかもしれない。私の肩を押す貴子の力は弱かった。だけど私の身体は呆気無く、ベッドの柔らかさに落ちていった。ネクタイを解くしゅるしゅるとした音が、耳元をかすめる。


 ブラジャーの肩紐をゆっくりと外す貴子の指は粉雪のまるでようで、私の体温に溶けて消えて無くなってしまいそうだった。生き物のように蠢く赤い唇が肌を上を擦る度、身体の芯がよろこびに震えるようだった。突き抜けるような劣情が心の草原をざわめかせる程、私は貴子の肉体を欲したし、おそらくきっと、ピンと手足を反らせて叫び声のような嬌声を漏らした貴子も、私の指と舌を欲してくれていたのではないかと、おぼろげに思う。


 正しいセックスの方法はまだ知らない。凸凹を結合させてひとつの塊になるのが正しいセックスだとしたら、互いの穴と穴をこすりつけ合って埋まらない快楽のみを追求する私たちのセックスは不道徳なのだろうか。私の上にまたがってじわじわと溢れる体液を溢れさせている貴子は、耳奥へ流れている私の涙を舐めとって囁いた。


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