第9話
銀色の通学用自転車を夜道に走らせてやってきた駅前で、柄の悪い連中と仲むつまじげに話している貴子の背中にベルを鳴らすと、貴子はゆっくりと振り返った。私の元へと駆け寄ってくるパジャマ姿の貴子の体からはほんのりとシャンプーの匂いが香っていた。
「早いのね。ちょっと驚いちゃった」
「どうしたの?」
「何が?」
「だって、こんな遅い時間に、呼び出すなんて」
「何処へだって行くよって言ったじゃない。私を連れて逃げてくれるって言ったじゃない。あの言葉は嘘だったの?」
いつだって私よりも少し前を歩く貴子の背中は、頼りない子供のようにちいさく見えた。そんなことない、と呟く私の声はみっともないくらいに甘くかすれていた。枯れ木をぽきぽきと踏みつけにしながら、貴子は私の方を振り向いた。
「ねえ、この先を歩いて行った先に、ラブホテルがあるの知ってる?」
私は頷いた。もう何十年も前に営業が停止されたとかいう、中世のお城を模ったようなラブホテル。ベッド端に拘束されたまま死んだ女の幽霊が出るという噂は県外にまで広がって、テレビ番組の取材は今でも度々行われているらしい。クラスの女の子たちが、話しているのを又聞きしただけで、本当かどうかは分からないけれど。
「知ってるけど。それがどうしたの」
「私のお母さん、あそこで死んだんだよ。殺されたの、お父さんに」
冷たい風が私のスカートの間を通り抜ける。喉がからからに乾いていた。
お母さんね、お父さんに殺されたの。
ただの冗談だろうか。私の心を乱そうとするための、貴子の嘘なのだろうか。でも、だけど。固い表情をしたまま、私を見つめる貴子のことを、私は笑い飛ばすことができない。瞳の中の暗闇は、深く、濃い色をしていて、星々の放つ微かな光さえも見えなかった。
「ねえ、何か言ってよ」
「言うって、何を」
「何でもいいよ。殺し合った親の元に生まれたかわいそうな私のために、とびきり優しい言葉を紡いでよ。羽毛のような柔らかさで赤ちゃんみたいな私を抱きしめてよ。だってあなた、私のこと、好きなんでしょう?」
貴子の言葉の語尾が微かに震えていることに気づいて、私は深呼吸した。好きだよ、辛かったね、わたしがいるからもう大丈夫。泡のように次々と頭の中に浮かんでくる言葉は、どれも適切でないように思えたし、貴子の心の襞を掠めることさえできないような気がした。黙りこくるしかない、力のない私を貴子は嘲笑した。
「本当、ダサいのね。何にもできないんだね、あなたって」
「ごめん」
「その代わりについてきてよ、ラブホテル」
「え?」
「お母さんの幽霊、いるかもしれないでしょ。成仏させたいの、いつも夢に出てくるから。枕元で何度も私の名前を呼ぶの。助けて、助けてえって、何度もしつこく。恐怖のせいで股から尿まで漏らして、情けなく、私の方へ手を伸ばしながらね」
背を向けて、貴子は私の前を歩いていく。白地にブルーの水玉柄のパジャマの輪郭が、濃紺のなかに溶けていく。その背中があんまり小さく見えたから、後ろをついていかない訳にはいかなかった。
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