第8話


 三つ編みにした二つのおさげが、詩織のスキップするタイミングに合わせて綿のようにふわふわと揺れている。


 私の隣を歩く詩織は人を好きになったことがあるのだろうか。特定の誰かのことを思って胸をじりじりと焦がしたり、居てもたっても居られなくなって小山に向かう路地裏を走り出してしまったり。誰かのことを強く欲したことがないとして、彼女もまたいつか、一点の曇りのないマネキンの様な笑顔を、私の知らない男の手によって奪われてしまうのだろうか。

 じとりとした視線に気づいたのか、詩織は戸惑った顔をして小首を傾げた。


「どうしたの。すっごい変な顔してるよ。怒ってる?」

「別に、何でもないよ。いつもこんな顔なんだよ」


 詩織はホトトギスの鳴き声のような笑い声を上げた。いつも前を見て歩かないから、放っておくと電柱にぶつかりそうになる詩織の腕をとってやる。車が一台、私たちふたりの側を通り過ぎて行った。


「そういえば、森園さんとはどう。順調に絵、進んでる?」

「ううん。ちょっと説明が難しいんだけど、絵はもういいっていうか、書く必要がなくなったっていうか。ごめんね、こないだは変なこと聞いて」

「そっか。そうなのか」


 詩織がそれきり黙ったので、私も黙って横を歩いた。詩織のローファーのつま先が、転がっていた空き缶を蹴る。詩織は川の土手に落ちていく空き缶を見つめていて、私と決して視線を絡ませようとしなかった。


「あのね。最近森園さん、変な噂がいっぱいあるの」


 言い出しにくそうに切り出した詩織の言葉を聞いても、私の心は平静だった。貴子のつけている香水のバニラの匂いが、不意に香ったような気がした。


「美術室、リストカット、援助交際?」


 パンクロックを歌うような私の声に、詩織の目が大きく見開かれる。


「気づいてたの?」


 頷くと、詩織はどうしてと言いたげな顔をした。どうしてもこうしてもない。それでも嫌いになれなかっただけの話だ。たとえ貴子が人でなしの悪魔で、私を殺すための斧を持っている死神だったとしても、私は台風の夜、あの子を求めて駆けずり回らずにはいられないのだから。


「まあね。でも、私は不良にもメンヘラにもならないから、安心してよ」

「ダメだよ、佳苗ちゃん、あぶないよ」


 私の手を握りしめる、詩織の子どものような体温に、目を閉じる。


「先生とだけじゃない。森園さん、駅前のラブホ街で、色んな男の人としてるんだよ。信じられない、きたないよ」


 私は詩織が処女であることに対する確信を強めながら、微笑んだ。


「ねえ、それ、嫉妬だと思ってもいいのかな?」

「違うよ。全然違うよ。ねえ私、こわいの。心配なの。だって、最近の佳苗ちゃん、変だもん。知ってるよ、いつも見てるでしょう。佳苗ちゃん、森園さんのことばかり追いかけて、いつか粉々にこわれちゃいそうなんだもん」


 この子は、まだ、何も知らない。人を好きになることがどれだけ自分の身を削るようなことなのか、きっと言っても分からない。優しくて、自分の優しさを誇りにしていて、それだけが正義だと思い込んでいる、詩織の無邪気な愚鈍さが、今の私にはただただ鬱陶しかった。


「関係ないでしょ、詩織には」


 詩織は突っ立ったまま、ぼんやりと私を見ていた。言うべきじゃないことを言ってしまったのかもしれないと、風呂に浸かりながら気づいたけれど、携帯が震える音がした途端、詩織の悲しそうな顔は頭から吹き飛んだ。湯船から上がった体が冷えていくのにも構わず、携帯を握りしめたまま、返信を打つ。


 了解、すぐ行く。12時に、駅前で。


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