第7話


 真っ暗な廊下を、貴子の背中を追いかけてひたすら走る。足がもつれそうになるのに、走るのをやめてしまえば永遠に貴子を追いかけることができないから、寒さと恐怖にふるえながら両足を交互に前へ出した。

 部活はとっくに終わったのだろう。屋上から一階に降りるまで、一人の生徒も見かけなかった。先生たちも、まだ私たちが学校に残っていることさえ気づいていないかもしれない。


 プール開きしたばかりの水面は、大雨のせいで濁っていた。灰色の雲を写し出している水の塊は雨水を吸って膨れ上がって、今にも入れ物の淵を超えて決壊しそうだ。靴下を脱いだ右足で水面に触れていた貴子は私の方を振り向くと、「佳苗、見て」と自分の両手を広げた。死んだ一羽のスズメの雛が、貴子の両手のひらの上に乗っていた。貴子はプールの水面の中に、魂の抜けた小さな肉塊を投げ込んで笑い声をあげた。


「あのね」


 貴子は大きな声で叫んだ。吹きすさぶ嵐の音に負けないように叫んだ。


「台風が来る度、ずっと続けばいいのにって思うんだ。いつまでも学校は休みで、だあれも外に出ようとしないんだよ。車も電車も飛行機も動かないの。だから私たち、どこにも行けないの」


 貴子は私に話しかけているはずなのに、そのまなざしはここじゃない何処か遠くへ向けられているようで、相槌を打つのさえ躊躇ってしまう。どうしてそんなこと言うの。何か、悩みごとでもあるの。言葉を唇に載せた瞬間、純粋な心配さえ陳腐な借り物の感情に変化してしまう気がして、私は何も言えなかった。


 雨を吸って重くなった制服のスカートが、太ももに張り付いている。こんなに雨に濡れたのはいつぶりだろう。子どもの頃は雨が来る度嬉しくて、傘を持たずに外へ飛び出しては母に怒られていたけれど、今は天気予報の雨マークを見る度、湿気で髪が膨らむことばかり考えて憂鬱になる。いつの間にかつまんない女の子になっちゃったんだな。そんなことを考えていたら、飛び込み台に立ったかと思うと、貴子は荒れ狂う波の上に勢い良く飛び込んだ。


 だけど、時間が経っても、貴子は浮き上がってこなかった。


 灰色に曇ったプールの中に、彼女の輪郭は見えない。はやる気持を抑えながら、水の中に呼びかけてみるも、返事はなかった。着衣のまま、水面の中に両足を沈めると、右足を掴まれて、引っ張られる。勢い良く喉に水を吸い込んだせいで、気管が徐々に閉まるような苦しさが身を襲った。けらけらと笑う貴子の声が遠くの方で聞こえた。


 貴子は私を見ていた。何も言わず、苦しむ私を笑うこともせず、まとわりつく髪を払おうともせず、濡れ鼠になったまま、プールの真ん中でぽつんとひとりきりで私を見ていた。咳き込む音が徐々に小さくなっていき、ついに途切れてしまうと、貴子は静かにこう言った。


「ねえ、佳苗はさ、こんな日にも、私の為に走ってくれるのかな?」


 私は少しも迷わずに頷いた。貴子が私から目を離さないでいてくれることが嬉しかった。私は貴子の手のひらを両手で包み込んだ。氷のように冷えている小さな手のひらが愛しかった。


「100年に一度の大型台風直撃の夜だよ。街ごと全部飲み込んで、粉々に破壊しちゃうような台風の夜があったとして、それでも佳苗は私を迎えに来てくれるのかな?」


 私はもう一度、強く頷いた。努めて冷静に話そうとする貴子の声が、少しだけ震えていた。もう少しだ、と私は思った。きっともう少しで私は、あなたの心に掛けられた南京錠の鍵穴をのぞくことができるだろう。


「来て欲しいって言われたなら、きっと何処にだっていくよ。私、あなたを連れて一緒に何処までも、逃げるよ。だって、あなたのことが、本当に、私」


 急に寒さを感じて身体を震わせる。突然の尿意がやってきて、一刻も早くプールから上がりたかった。だけど、私の顔色の変化に気づいた貴子はにやにやと笑みを見せた。嫌な予感がして身をよじったけれど、貴子は私の右手を握って決して離そうとしなかった。


「ここでしちゃえばいいよ。私しか見てないから」

「やだよ、そんなの」

「大丈夫だよ、ほら」


 貴子は毛糸玉をたぐり寄せるように私の手を引っ張った。貴子の手の平が私の下腹部を抑える。限界はとうに超えていた。太ももの間に這う生暖かい感触は、冷たいプールの水に溶けてすぐに消え失せた。さっと熱を持つ頬に、貴子は赤い唇を寄せて、ささやいた。


「内緒にしてあげる」

「え?」

「これは、佳苗と私の、ふたりだけのひみつだよ」


 ひみつ。背筋がぞくぞくとして、普通に立っていられない。海に輪郭を溶かすくらげに刺された心が、永遠に痺れているみたいだった。貴子の言うひみつという言葉は、初めて耳にするような甘美な響きを持っていて、耳奥に張り付いて消えなかった。


 あなたが私にくれた特別は、一生ものの宝物みたいに、いつまでも胸の中で光っていた。真冬の暗闇に見る一番星みたいに、私の心の柔らかいところに、つよく、儚く、光りつづけていた。


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