第6話


 その日は朝から白い針のような雨が降り続けている寒い日の放課後だった。私と貴子が出会った日。いや、正確に言えば、私が貴子を見つけた日のような。


 普段は開いている美術準備室には、何故だか鍵が掛けられていた。美術室に入って絵の準備をしているとき、鍵のかかった部屋の理由にはたと思い当たった。薄い壁の向こうから聞こえてくる、猫の鳴き声のような嬌声を、私は知っていた。美術準備室に置かれている、一人掛けの古いソファのスプリングが軋む音がひっきりなしに聞こえていて、いつまでも止む気配はなかった。


 震える指で、いつものように、パレットの上に絵の具を絞り出す。赤、オレンジ、青、ピンク、緑。何色もの色を吸い込んだキャンバスはまっくろで、日の光が決して射すことのない深い穴のようにも見えた。

 先生、先生、すごくいいの。もっともっと、こわれるくらい、私を好きにして。美術準備室から、貴子の甘い声が聞こえていた。


 —嗚呼、あの子は、私にあてつけているのだ。きっと。

 そのことに理由なんてない。ただ、私を弄ぶのが面白いのだ。

 でも、もしかしたら。本当に私のことなんてどうでもよくて。

 彼女の瞳には先生しか、見えていないのかもしれない。


 気がついたら、目の前にあるキャンバスには本物の穴が空いていた。私の顔が突き抜けてしまうくらい、大きな穴。ぽたぽたと液体が垂れる音に俯くと、カッターナイフの刃先を握りしめた私の手から機械的なリズムで鮮血が滴っていた。


「何やってんだろ、あたし」


 本当に、馬鹿みたいだ。こんなことしたって、あの子が私のことを見てくれる訳じゃないのに。いつの間にか準備室は静まり返っていて、耳を澄ましても、甘い鳴き声も、スプリングの音も聞こえなくなっていた。ざあざあと、激しさを増した雨の音が響いているだけだった。


 ぼうっと椅子から動かない私の前に、制服のスカーフをはだけさせた貴子が現れたのは、美術室から聞こえていた嬌声が止み、暫く時間が経った後だった。頬に紅を差して、唇を赤く染め、バニラの香りを漂わせている彼女は、何故かいつもよりも子どもっぽく見えた。


「ねえ、聞いてた?さっきの」


 残酷な問いに答えないでいると、貴子は切なそうな顔をした。私の頬に伝う涙を、猫のようにぺろぺろと舐めるその赤い舌は、紙やすりのようなざらりとした感触がした。さっきまで先生のあそこを舐めていたかもしれない舌。


「ねえ、悲しいの?」


 答えられない。答える気力もなかった。この子は今、この時を楽しんでいるだけ。誰かに特別だと思ってもらえる優越感に浸っているだけ。きっと、私のことなんて。これっぽっちも好きじゃないくせして。だってそう、もうあなたは私のことなんて見ていない。

 窓ガラスを叩きつける大粒の雨粒が弾ける様を見つめながら、貴子は静かに言った。


「ねえ、佳苗、プール行こうよ。私、嵐の日に、泳ぐのってとくべつ好きなの。悪いこと、してるみたいだから」


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