第5話


 次の日、美術室に忘れ物を取りに来た貴子が先生に会わなければ。

 次の日、触れたら壊れてしまいそうな貴子の心の繊細さに、先生が気づかなければ。


 何度も繰り返し問い続けた命題に、はっきりとした回答を見つけることはできない。奈落の底へと突き進むジェットコースターのような貴子の恋は、あの夕暮れ時の美術室で始まったのだと思う。



 放課後、美術室の扉を開けると、先生が石像のデッサンをしていた。誰かに邪魔されるのが嫌いなのか、先生は大抵生徒の居ない時を見計らって絵を描いている。普段と違うのは、真剣な表情で絵に向き合っている先生の側に、貴子がしゃがみこんでいるということだ。

 貴子は先生のキャンバスを覗き込むようにして座っていた。貴子の赤い唇は半開きになっていて、先生の絵に心を奪われていることが、傍目から見ているだけでも伝わってくる。しんとした美術室には、筆とキャンバスが擦れる音だけが響いていた。


 この時間を邪魔するべきじゃない。今すぐ回れ右をして、家に帰ろう。そうしないと、私はきっとますます、貴子のことを怒らせてしまうだろう。嫌な感じにきしみ始めた胸の鼓動をそのままに、美術室の扉を慎重に閉めた。

 銀色に光る自転車にまたがり、夕闇の帰路を前へ前へと走っていく。


 先生の絵を熱心に見つめる貴子の瞳を思い浮かべる度、全身の血が燃え滾るようだった。恋愛がそういうものだと分かっていても、性懲りも無く傷つけられる。いちばん欲しいものほど、手に入れるのは難しい。

 どうして、私があの子に感じた衝撃を、あの子は決して私に感じてはくれないのだろう。



 それから貴子は度々美術室にやってくるようになった。

 あくる日もパレットの水を替えていると、美術室の扉が開く音がして、振り向くとそこには、貴子が所在無げに立っていた。先生がいないことが分かるとたちまち、貴子の表情が退屈そうになる。無視して筆についた絵の具を払っていると、いつの間にか側にいた貴子が、私のセーラー服の襟に顔を押しつけた。

 この香りを私は知っていた。懐かしい香りだった。お婆ちゃんの家に行くときにだけもらえる、高級なアイスクリーム特有の、甘いバニラの香り。


「何?へんな顔して」

「香水、つけてるの」

「ああ、これ」


 この世の全てをつまらないと初めから決めつけていそうな貴子の表情が変化する。誇らしげで、得意げに見えるのに、何処か切なそうに顔を歪めて、「パパが誕生日に、私にくれたの」と言った。娘の誕生日に香水をあげるなんて、随分洒落たことをする父親なんだなと私は思う。何故ならその時の私は、まだ貴子のことを何一つ知らなかったのだ。


「あーあ、暇だなあ。先生何処行っちゃったの?」


 貴子は突っ伏して、机の上に右頬を擦り付けている。彼女の白いセーラーカラーが、開け放した窓から吹き込んできた風に揺れる。風は湿気を含んでいて、今夜の雨を予感させた。


「今日は用事があるから、帰るって」

「ふうん。何の用事?」

「知らないけど。でも、ねえ貴子、先生は、妻帯者だよ」


 私は少しだけ、貴子を傷つけたいと思って、そうした発言をした。いつも私をからかってばかりな貴子が傷つく顔を、一度で良いから見てみたいと思ったから。でも、私のちくちくした期待に反して、貴子はどうでも良さそうな口ぶりで、「それがどうしたの」と言った。


「そんなの関係ないじゃない。これは先生と私の問題なんだから。他の人間のことなんて、考えたことないわ。欲しいものなら力ずくで、私のものにすればいいだけよ」


 絶句する私を、貴子は不思議そうな瞳で見返した。

 私は絶対に、貴子のようにはなれない。同時に恐らく、この身勝手極まりない女の子の心を手に入れることはきっとできない。近づけば近づくほど、熱く燃え盛る貴子の炎に触れて、体中に火傷の跡が刻まれてゆくのだから。


「あら、前よりは上手く描けてるじゃない」


 貴子は私のキャンバスを覗き込んでそう言った。それは一枚のひび割れたコップの絵でしかなく、私の秘めた想いなど、決して露見するはずがないと高を括っていた私は驚いた。


 —どうして、分かったの。


 センスのない問いを口に出す前に、貴子は美術室の扉の方へと駆けて行った。まるで忠犬ハチ公のようなすばしっこさだった。先生、先生。会いたかったわ先生。虫酸がはしるほど甘ったるい貴子の声を背後に聞きながら、キャンバスをじっと見つめて、色を塗りつけていく。

 赤、オレンジ、青、ピンク、黄色、緑。何色もの絵の具をパレットの上に絞り出して、筆にとっては重ねていく。血液中の細胞が貴子の声を聞くために耳奥に集中しているようだった。きっとこの絵は永遠に完成することはないだろう。

 粉々に壊れることもできない、私の貴女への想いみたいに。


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