第4話
東京からやってきた、隣のクラスの、エキセントリックな転校生。
それが森園貴子だった。
「どんな人?ううんと、私も良く知らなくて。あの子、いつも一人でいるから。物静かだし、美人だけど、何処かとっつきにくいっていうのかな。クラスでも仲良い子はいないみたいだよ。でもどうして、佳苗がそんなこと聞くの?」
少しだけ間をおいて、不思議そうな顔をしている詩織に向かって、準備していた返答を話すことにした。美術部で人物画の練習をしようという話になり、モデルを探しているのだが、廊下で見かけた森園貴子のミステリアスな横顔に惹かれて、打診しようか迷っている。一息にそんな風なことを言うと、詩織はふむふむと頷いた。相変わらず頭の足りない彼女は、人を疑うことを知らない。
「じゃあ私、今度、森園さんに頑張って話しかける。佳苗があなたのこと描きたがってるから、協力してくれないって聞いてみるよ」
「ちょっと待って。そういうことじゃないの、ただ私は」
「佳苗、照れることないよ、大丈夫。自分のこと描きたいって言われて、嫌な気持ちになる人なんていないから。もしも私がそんなこと言われたら舞い上がりそうに嬉しいと思うもん。あっ、もうすぐ授業始まっちゃう、佳苗またね!」
勝手に盛り上がって、盛り上がったまま、詩織は廊下を駆けていく。呆然と立ち尽くす私の耳に、授業始まりのチャイムの音が響いていた。
*
屋上で彼女と会うのは、これで二度目だった。
私の用意した椅子に腰掛けて足を組んでいる彼女を横目で見ながら、静謐なキャンバスの上に淡い水色を滑らせていく。指の先が震えて、思うように輪郭を描くことができない。そんな私を知ってか知らずか、貴子は椅子から立ち上がり、ゆっくりと、私の方へと歩いてきた。胸まで垂らした墨汁のような色の長髪が、膝丈の紺色のプリーツスカートが、ふわりと風に舞い上がっている。
キャンバスにしがみついて、右頬を水彩絵の具で汚している私を、背の高い貴子は冷徹な目で見下した。
「何やってるの、あなた」
「ダメだよ。まだ、未完成だから」
「私はあなたのモデルなのよ、見せるのが筋でしょう」
「でも」
「こないだは大胆だったくせに、今日のあなたは怖がりなのね」
貴子はしゃがみこんで、私の瞳をじっと見つめた。それからゆっくりと顔を近づけて、乾燥してひび割れた私の唇に静かに触れた。その数秒の間、蜘蛛の巣に絡め取られたみたいに、私は自分の身体を自由に動かすことができなかった。気づいた時には、いつの間にかキャンバスは貴子の手の中にあり、貴子は微笑しながら私の絵を眺めていた。固唾を呑んで膝の上に手を置く私をからかっているつもりなのか、それは随分長い沈黙だった。
「ねえ、あなたって女好きなの?」
「分からない。でも、惹かれるのはいつもそう」
「へえ。今は私って訳ね」
貴子は再びキャンバスに目を遣り、画架の上に戻した。そして、パレットの上に寝そべっている一本の平筆を手に取ると、チューブで絞り出した黒色をその筆先に塗りたくった。何をするつもりなのか、と思った瞬間、貴子はその筆でキャンバスの上に大きな黒点を落とした。瞬く間に水色の貴子が、黒い闇に覆われてゆくのを見つめながら、私は呆然と佇んでいるしかなかった。
「私、誰かに理想化されるのって嫌いなの。死んでもあなたの見たいものなんて、見せてあげないって思う。傲慢だし、気持ち悪いのよ、こうあって欲しいだなんて、全部自分の為のことなのに」
荒々しい手つきで、キャンバスを黒色に染め上げると、貴子は平筆を放り投げて、ため息をつき、面倒臭そうな手つきで黒髪をかきあげた。
「女の子だからって思ってたけど、友達になれるかもしれないって思ってたけど、つまんない好意ならいらないの。だからモデルは今日でおしまい」
黙ったまま口を利かない私をその場に残して、貴子はプリーツスカートを翻しながら、早足で去って行った。パレットの横にピンク色のスマートフォンが置かれていることに気づいたけれど、ピンと伸びた背中は「ついてこないで」と暗に言っているようで、声をかけることは許されなかった。
長時間正座を強いられたときのように、身体ががちがちに固まっていた。のろのろとした動きで、キャンバスとパレットを片付けて、美術室に向かう。一体何が彼女の気に触ったのか、幾ら考えても分からない。ただ、私に向けられた刃物のような切っ先の言葉たちが、いつまでも胸をせつなく切付けていた。
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