第6話 度々現れる

 シフォン社の工場を出て、夏の暑い道を汗をかきながら、と言っても随分軽やかな気分で歩いていたけれど、僕はもう一度さっきの駅に着いた。


 駅に着いた時、僕は声を上げて「やったあ」と言った。声を上げてと言っても人目を気にしながらなので、誰にも気づかれなかったと思う。


 熱血キャラではないので、恥ずかしいのは苦手だ。僕はもう一度、今度は声を出さずに小さくガッツポーズをした。



 そこからどう会社に戻って、どう報告したのかは覚えていないが、とにかく僕は達成感でいっぱいだった。受注というのは達成ではなく始まりなんだと、ミムラ課長にも常々言われているし、それはよく分かっていた。


 でもこの日は達成感でいっぱいだった。僕の頭を駆け抜けたあの猫、ワンダーねこと呼ぼうと思う、に感謝しながら僕はその日ぐっすり寝ることができた。


 ちなみにミムラ課長には、その後ご褒美として、ミムラ課長行きつけの、ミムラ課長がおねえちゃんと呼んでいるおばちゃんがたくさんいる飲み屋、多分スナックというのだろうけど、に連れていってもらった。うん。


 でも、その下りは思い出すのがめんどくさいくらいに退屈なだけだった。ここでは、僕にとっては特にご褒美ではなかったということだけ言っておこう。




 ワンダーねこに救われた話はそれ以外にもある。結構些細な場面でも出てきてくれるのだ。



 それは、部署の事務作業をしてくれる庶務の仕事をしている女性の中でもベテランのミヨシさんに、もう何度目かで同じ資料のまちがいを指摘された時だった。


 僕はいつも社内で承認を受けるための稟議書を少ない時でも1回、多い時は3、4回書き直していた。


 みんなが書き直しをするような資料かというと、残念ながらそういうわけでもない。大体の人は1回でOKになる資料なのだ。



 その日はミヨシさんも少し苛立っていたのだと思う。何か部長に言われたのか、他部署のそりの合わない庶務さんと何かあったのか、後輩のマエカワさんと何かあったのか、それとも何もないけど月のめぐりが悪かったのか、それは分からない。


 だけどその日はいつもと同じような間違いがどうも気に入らなかったようだ。いつもは軽く気をつけてね、という言葉があるくらいなのに、この日は違っていた。


 ミヨシさんは「どうしていつも、いつも同じことを間違えるの?ちゃんとやる気があるの?直してもらえばいいやと思ってない?」と幾分ヒステリックに僕に言い捨てた。


 やれやれ、悪いことしたなあと思い、資料を直そうと自分のデスクに戻ろうとするその時だった。あのいつもの「ずーん」という音が聞こえたのだ。


 その音とともに僕は一気にやる気をなくし、自分のデスクを通り過ぎて、資料を通路脇のくずかごに捨てて、まっすぐ入り口を通り過ぎて、そのまま帰ろうと思った。


 腹が立ってのことではない。ごくごく自然の流れとして、誰もがそうするだろうと、本当にその瞬間はそう思いながら、全て投げ捨てようと思った。


 実際過去の僕だったらそうやって帰ってしまい、二度と会社に現れず、訳のわからない新人がいたという記憶をみんなに残しただろう。



 だが、その時だった。またあのワンダーねこが出てきた。前と同じ赤いマントをはおって、おでこにはたまと書かれたハチマキをしたワンダーねこだった。


 笑顔のワンダーねこだった。足元から鼻先のすぐ前を通って遥か上空まで飛んでいき、後には爽やかな砂埃がパーッと舞って、星のように散って行くまでをまた一瞬で同じように再現した。


 僕はとても軽やかだけど、強いやる気で満たされた。


 僕はデスクに戻り、その箇所を直すだけでは他のミスも残っている可能性があるという事を意識しながら修正作業に取り掛かった。


「ミスをした時はさらにミスを重ねないように、落ち着いてしっかり全体を見直すことが必要」と誰かに言われている気がした。


 僕は過去に僕の作った稟議書と補足資料である添付資料を並べ、自分の間違った箇所をピックアップした。書き出してみると、それはとても簡単な事だった。


 間違いは出だしの箇所と見積もりの計算根拠の計算内容に集中していることが分かった。ここさえ気を付ければミスは殆どなくなる、と感じた。


 同じ間違いを繰り返さないように、確認する事項をピックアップしたチェックリストを作成した。作成したチェックリストを元に、再度さっきの資料を見直し、自分で自分の資料を客観的にチェックした。


 その結果、他にもミスが一つと、ミスとは言えないがこうした方がいいという修正箇所を見つけて、そこも修正した。それから全体の見栄えも変更した。


「実はこういう資料ってミスが分かりやすいような並べ方とか見え方も大事だよね」と僕は一人言を口にした。



 修正した後、再度資料をミヨシさんに出したら、「なんかいいわね、これ。このまとめ方、こっちの記録も簡単になるわ。みんなに広めてよ」ととても上機嫌に受け取ってくれた。


 こんなに機嫌がコロコロ変わることもあるんだなあと、ちょっと不思議に思うと同時に、自分の環境というのは、本当に自分次第で変わるものだなあと再確認した。


 相手の機嫌が悪い理由を探すだけでなく、それが良くなるような行動をすれば、こっちまでさらに気分がよくなるという発見だった。


 そして僕はそのチェックリストをスマートフォンに入れて時々チェックするようにした。


 その後同じような失敗を僕は全くしなくなった。


 ミヨシさんともあの時期のミスは、今となっては懐かしい思い出として語られるのだ。

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