第5話 いざ、再決戦

部長は面白がって反応してくれたようだ

「なるほど。どうしてそう思うんだ?」

「はい。先方の担当の方がタナカさんというのですが、他社の見積もり金額をズバリ教えてくれたんです。そして金額的な部分で残念だと言ってくれました」


 僕は、意識しているとはいえ、こんなにハキハキと筋が通っている自分の話にびっくりした。これもさっきの猫のおかげかもしれない。


 このタイミングで、なぜか僕はさっきの猫の名前がたまにゃんだと気づいた。名付けたのではなく、気づいたという表現がぴったりだった。気づいた後に僕はこう続けた。


「こんなに限定的に言ってくれるのは、相当うちの会社のことを思ってくれているのかも、いや、恥ずかしげもなく申し上げると、私を気に入ってくれているのかもしれませんが」

 いつも厳しい部長が電話越しにニヤニヤしているのを感じた。


「なるほど。取引自体は一度始まると長いから、中々ないチャンスだろうしね。具体的にはいくらにしたいの?」


「1800円ではなく、少なくとも1770円に。できたら1760円としたいです。支払い月は手前に交渉してもいいかもしれません」僕はスラスラと答えた。


「想定していた量から考えると月数十万から百万は変わってくる話だけど、それは意識しているの?」と念のために確認する部長に対し、僕は

「もちろん計算の上です」と答えた。


 電話の奥から電卓のカチャカチャという音が聞こえてきた後、

「なるほど。確かにそれを差し引いてもまだ魅力的な話だとは思う。1760円なら絶対確定かな?」と部長はさらに確認した。

「絶対だと思います」絶対とは、ついさっきまで思っていなかったのに、自然とその言葉が僕の口から出てきた時に不思議と僕は絶対だなと確信した。


 電話の奥の電卓が、カチャカチャ、ターンという音を立て、

「了解。うちにはあまりない、テンションの上がる話で興奮したよ。1760円で進めてよし」と、温かい声で部長は僕を元気づけてくれた。

「ありがとうございました!」僕は勢いよく返事をした。


 いざ、戦場に戻ろうという気持ちで僕は駅員さんに「すみません。忘れ物をして」

と言っていた。



 僕は再びシフォン社に向かい、入り口に着いてノックをした。ドアを開けると左奥にタナカさんがいるのだが、タナカさんは誰かと電話しながら、僕を見ると分かりやすくニヤリとした。


 受付の女性に入り口右側のいつもの応接セットを案内され、タナカさんの電話が終わるのを待った。タナカさんはいつも長めの電話を早めに切った。


 いや、勝手に僕がそう感じているだけかもしれない。実際、その時の感覚としては待っている間はとても長く、汗のようなものが体のどこかからか流れ続けているような感覚だった。


「どうしたんですか?」

 ニヤリとしながらタナカさんは応接セットの方に歩いてきて、僕の顔をじっくり眺めながら僕の前に座った。


「上司と交渉しまして」僕が切り出すとタナカさんは、「さっき出たばかりですよね?どこでですか?」と僕の話しに割って入って聞いてきた。


「駅のホームです。携帯で」と僕が答えるとタナカさんはニヤニヤしながら何度も細かくうなづき、「便利な世の中になりましたねえ」と言葉を発した。


「便利といえば、最近は高校生、いや中学生くらいからスマートフォンを手にするようになって、うちの息子もスマートフォンのゲームに夢中なんですよね」


 全然別の世間話を始めたタナカさんに対して僕は戸惑いながら、

「はあ。」と返すのが精一杯だった。そこでの世間話をここで全部話すのはやめておこう。僕だって早送りしたい気分でいっぱいだった。 15分ほど世間話をした後タナカさんはサラリと言った。


「じゃあ、今後の注文は御社にお願いしますので」


 僕は一瞬意味が分からなくて、勘違いして、必死に自分が部長と交渉して引き出した価格で再提案しようとした。でも、「ちょっと待ってください」、の「ちょ」が口に出る前にかろうじて言葉を発するのを止めることができた。


 でも僕の頭はまだぐるぐるだった。混乱している僕にタナカさんは言った。


「断られたのに駅で上司に交渉して再度話を持ってくるなんてそれだけで、充分心動かされましたよ。」


 なおもびっくりして止まっている僕にタナカさんはこう続けた。

「で、価格はどうなったのか一応見ておきましょうか。」タナカさんは僕の書きなぐった、さっきの見積書を勝手に裏返して言った。


「1760円!また渋いとこついてくるなあ。ギリギリですよ。これ」


 僕はここでようやく少し笑いながら答えることができた。

「さっきのタナカさんの反応でこれくらいかなあと思いまして」


 タナカさんは素晴らしいとしきりに言いながら、事務員の女の子にもう一杯お茶を出すように言った。そしてもう一度、

「男に二言はないですよ。これで進めましょう」と言ってくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る