第4話 突然の登場

 見積もりを持っていく日は、なんでもない日だったのに、妙に覚えている。もう7月だったからネクタイはしていなかったが、大事なこれからのお客様だからと僕はスーツの上着を着ていた。


 夏用のスーツの上着なので裏地も殆どなく、薄いものなのだが、それでも駅からシフォン社の工場まで行く間に僕の Yシャツは汗でびっしょり濡れていた。


 いつもと同じ洋菓子用のエプロンを着たタナカさんは、

「こっちはいつもこんな格好してるのに、そんなに暑い格好しなくていいよ」

と言いながら、冷たいお茶を勧めてくれた。


 長い取引をしているお客様よりほんの少しだけ高い、でも初取引の会社としては異例の価格で社内の承認を取っていたので、僕は自信を持って見積もりの説明をし始めた。


 タナカさんはにこやかに、うんうんと話を聞いてくれた後にこう言った。

「いや、実はいつも取引してる業者もようやくこの小麦粉を扱ってくれることになってね」

そしてすまなさそうにこう続けた

「結構いい条件出してくれたと思うんだけど、少しだけ、殆ど一緒なんだけど、少しだけ条件高いから、これでは難しいね」


 全く知らない話が次々出てきたので明らかに戸惑った僕は

「そうですか」とつぶやくことしかできなかった。


 なんだかやるせない気持ちでシフォン社の工場を出た。僕はもやもやとした気持ちでいっぱいだった。


 出際にタナカさんが、

「また声かけるし、新しいことあったら提案してきてよ」と言ってくれたので、今後の潜在的なお客様にはなったのかなと思う。僕はそう思って自分を納得させることにした。



 最寄りの駅で帰りの切符を買って、ホームに入り、次の電車まで10分ほどあるのを確認した時に、「もっと今できることがないんだっけ」とふと思った瞬間のことだった。いつものあの「ずーん」という音が聞こえた。


 僕はその場で、駅前の役に立たないオブジェのように固まった。


 最悪のタイミングだった。このタイミングでこの音が聞こえてしまうと、この商談がというレベルではなく、もう会社に帰ることや今日の顛末を課長に報告することさえおっくうだった。


 もう、逆方向に向かう電車に乗って、どこか遠くに行ってしまおうかとさえ思いかけていた、その時だった。


 それは猫だった。しかも赤いマントをはおって、おでこには「たま」と書かれたハチマキをした猫だった。笑顔の猫だった。


 その猫が僕の心の奥底からすごい音で、すごいスピードで、すごい勢いで現れた。その猫は僕の足元から鼻先のすぐ前を通って遥か上空まで飛んでいった。


 後には爽やかな砂埃がパーッと舞って、星のように散って行った。一瞬の事だった。僕は一瞬そんな幻覚に襲われるなんて、今度こそ本気で自分がどうしようもないくらい頭がおかしくなってしまったのではないかと感じた。


 しかし、それは逆だった。全くの反対だった。自分の奥底から得体のしれない、それでいて熱く燃えたぎったやる気がほとばしり、溢れ出してくるのが分かった。


 指先の爪先まで神経が通っているのが感じられた。いや、感じられたと言っても、感覚としては実際はあるかないか位の、とても軽いものだったと思う。しかし僕はそれでやる気が出たのだ。それでやる気が出たと信じられたのだ。


 僕は「諦めるわけにはいかない。ここで諦めるわけにはいかない」と思い、ここでできることはないかと考えた。


 思えばタナカさんの反応を思い出せばタナカさんも残念そうだった。心惜しそうだった。それなら、もうひと押ししたらいけるんじゃないか。終わったんじゃない。目の前に形を変えたチャンスがあるんだ。


 何の根拠もないのにそう思えてきた。なぜだかわからないけど、僕の胸は根拠のない自信で一杯に満たされた。


「よしっ!やるぞ」


 思わず声が出ていた。人気のないホームだったけど、人がいるかどうかも気にしていなかった。

「まずは会社に電話して、もう少し値段を下げる交渉をしよう」


 早速僕は持っていた携帯で会社に電話した。電話を取り次いでくれる、若手の庶務のマエカワさんが出た。


 いつも通りの首の後ろから声を出しているような、高くてかわいい声だ。

「お疲れ様です。ミムラ課長いますか?」と僕は聞いた。

「あら。ミムラ課長は今日外出よ。夕方まで戻ってこないわ」

と、さらっとマエカワさんは返した。


 本来ならこの後ミムラ課長の携帯に電話するところだが、実際ミムラ課長は自分で価格を決めることはできなさそうだった。僕は力を込めて言った。


 ハキハキと話した方がいいと思って、意識してハキハキと話した。

「部長いますか?」と僕がハキハキ聞くと、

「部長?いますよ。珍しいね。ちょっと待ってね」

とマエカワさんが電話を保留にした。聞き慣れている、くるみ割り人形が、その時はやけに落ち着きのない音楽に聞こえるなあ、と思っていた時だった。部長が電話に出た。

「どうしたんだ。シフォン社への提案の報告かな?」


僕は答えた。ハキハキだ。

「そうなんです。部長。その件で相談なんです。結論から申し上げます。以前、シフォン社用にご承認いただいた価格より少し安く提案したいのです。もう少し後ではなく、今直ぐです。今最寄りの駅にいるのですが、チャンスは今で、これを逃すと当面、うちの会社にチャンスはないと思うのです」

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