第9章 囚われの二人
1 トイレに行きたい
『かっこつけてた割には、普通に眼ェ醒ましたな』
……かっこつけてねーよ。
六畳間ほどの面積しかない薄暗い独房に座り込み、俺はつい先刻まで見ていた夢のことをぼんやりと思い返していた。
またあの夢だ。
誰もいない大草原。独りで当てもなく走り続け、いつの間にやら眼が醒めているお決まりのパターン。
だが、今回は少し様子が違った。夢の中でこいつの声がしたのだ。それで俺は眠りから醒めたのだった。
『テキトーなこと言ってんじゃねーぞ。俺は一度も起こしてねーよ』
違うのか?
じゃああの声はなんだったんだ。お前そっくりの声だったぞ。
『知らねーっつってんだろボケ。まだ寝ボケてやがんな。とっとと起きろやウスラボケが』
単なる
石造りの床にはうっすらと綿埃が積もっている。カビ臭さも鼻に衝く。じめじめした、大層居心地の悪い空間。
しかも寝床は硬質な石畳のみ。快眠には程遠い環境だ。こいつの声を聞かなくてもじきに眼は醒めていただろう。
何故ここが独房と判るのか?
答えは簡単だった。
『あの鉄格子見りゃバカでも判るだろ』
もっと棘のない言い方あるだろ。
まあいい。誰が見ても答えは明瞭だ。出入り口が頑丈な鉄格子になっていたからだ。
その先は横に延びる通路で、向かいは味気ない石の壁がのっぺり打ち続いている。多数の見物客でも押しかけていれば見世物の檻の可能性もあるが、通路には行き交う人影すらない。三方を石に囲まれ、前方には鉄格子。
俺は囚われの身となった。幽閉されたのだ。
だが悲観するには及ばない。ルキの奴も、どこかの牢獄に閉じ込められているかもしれないのだから。命が助かっただけでも儲け物だ。
『何が儲け物だよお前。あっさり捕まっちまいやがって。ざまぁねーな、逃走の天才が
随分な言い様だな。確かに今の俺は鉄格子の中だが、ここを脱することができたら完全におあいこだろ?
『どうやって? ていうか、それができりゃあそもそも捕まるようなヘマなんざしねーだろうが』
判ってないなお前は。あのとき俺は逃げに徹しきれなかったんだ。あそこでの第一の任務は、ルキを探し出すことだった。俺は自分でも気づかないうちに、追いかけるほうに重点を置いちまってたんだよ。
『じゃあ、これからどうするよ』
逃げることを何よりもまず優先させる。ルキを探すのは後回し。
『そういうのを薄情っていうんじゃねーの、巷じゃあ』
違う。これが俺に相応しいやり方なんだ。
俺の基本は逃げだから、それに逆らうような行動は
『そんじゃまあ、お手並み拝見といこうかね』
そんなに急かすな。今は現況の把握が先決だ。
そういえば、あの穴に落ちてからどれくらい時間が経ったんだろうか。かなり長い間寝ていた気がする。
ポケットを探る。スマホの感触はない。これまたどこかに落としたらしい。
『寝てる間に没収されたのかもな』
武器を持ち込まないようにか。その可能性もなくはない。このままじゃ時間も判らないし連絡も取れない。弱ったな。
『さっきまでの威勢はどこへやら』
ルキがこの建物のどこかにいてくれたら、まだ打つ手があるんだがなあ。
『なんでだよ……おや、誰か来るぜ』
耳を澄ませる。堅い床をコツコツ歩く靴音が二人分。音量は段々大きくなる。近づいてきているようだ。
件のローブに身を包み、昔ながらのランタンを手に現れた二人組は、俺と視線が合うと大いにたじろいだ。そして口早に何やら相談を始めたが、俺にはどうしても会話の内容を聞き取ることができない。日本語以外の言語のようだった。
『なんか、上司に報告するかどうか迷ってるみたいだぜ』
何?
お前判るのか? あいつらの言っていることが。
『判る。なんか俺、実はバイリンガルらしい』
なんだそれ。なら、あいつらは一体何語を喋ってるんだ?
『知らん』
知らんってお前、どこの言語かも判らないのに理解できるなんておかしいだろ。
『しょーがねーだろ。俺だって詳しいことは判らねーんだからよ。とにかくだ、そこの二人はお前が三日ぶりに起き上がったのにびっくりして……』
待て待て待て。俺は三日も寝ていたのか? ぶっ続けで?
『そう言ってるぜ』
顎に手を当てる。無精髭が指に当たってくすぐったい。言われてみると、全身がなんとなく重いし、腹も相当減っている。
そんなことを考えていたら、突然尿意を催した。飲まず喰わずとはいえ三日間も排泄していないのだ。トイレが近くなるのは自然の摂理というもの。
なあ、おい。
『なんだよ』
ちょっと俺の代わりに通訳してくれないか。トイレに行きたい。
『アホか。できるわけねーだろ。俺の言葉は奴らにゃ聞こえねーんだぜ?』
だから、お前は俺に発音を教えればいいんだよ。俺はそれを真似て喋るから。これで多分通じるはずだ。
『無理だって。俺あいつらの言葉喋れねーし。第一トイレの訳語が判らねえ』
矛盾してるぞお前。訳語が判らないのに、どうして向こうの言葉が判るんだよ。
『知るか』
ダメだ。話にならん。
ローブの二人はランプを掲げ、恐る恐るこっちを注視している。年の頃は俺よりも少し上か。濃い褐色の肌。見たこともない紫色の虹彩をした瞳。見るからに異邦人の風貌だが、国までは判別できない。
「あのぉ……トイレに行きたいんスけど」
「…………」
「トイレに行きたいんで、ここちょっと開けてもらえないッスか?」
返事がない。こいつらも話にならん。日本語が通じない。ここは日本なんだから、会話に頻出する日本語ぐらいマスターしといてくれよ。
取り敢えずこの鉄格子をなんとかしないと。俺は南京錠のぶら下がっている鉄格子を掴もうと、手を近づけた。
バチッ!!
「あつッ!」
手に電流が流れたような衝撃。
「な、なんだよこれ」
その箇所の鉄格子に青白い光の帯が駆け巡っているのが、一瞬だけ見えた。
アルティアの翻訳機もないし、こうなったら身振り手振りで示すしかない。ジェスチャーは万国共通だろう。俺は股間を押さえてそわそわする仕種をした。
対する二人に変化はない。俺は思い切ってズボンのチャックを降ろし、ついでにベルトをカチャカチャと外し始めた。表に出られないなら、ここで用を足すまでだ、とでも言わんばかりに。
二人が手を挙げて、口々に何かを叫んだ。やはり聞き憶えのない言語。強いて言えば、録音した音声の逆回転に近い、実に奇妙なイントネーションをその言語は有していた。
『やってみるもんだな』
うまくいったのか?
『おう。すぐに便器を貸してやるってさ』
……なんだと?
『良かったじゃねーか。これで高校生にもなってションベン洩らさずに済むぜ』
全然良くねーよ! 外に出るせっかくのチャンスが。
『ああ、そういうことか』
ちゃんと読めよ、俺の心を!
程なくして、鉄格子の隙間から差し出された携帯用便器を、俺は複雑な思いで見やっていた。溜め息が止まらない。最初の脱出作戦は玉砕に終わった。
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