2 トイレトイレ

『早く用足しちまえよ。我慢は体に悪いぞ』


 ……そうだな。二人の見張りを避けるように独房の片隅へ移動し、今一度チャックを降ろす。と、通路の二人が咎めるような怒声を飛ばしてきた。


『中断しろってさ』


 おいおい、今更何を。便器まで渡しておいてそりゃないだろう。


『大事な客人が通るから、それまで我慢しろだと』


 ちきしょう、誰だか知らんがとっとと行ってくれよ。俺は足踏みしながら押し寄せる尿意との格闘を続けた。

 大人数の跫音がゆっくりと、だが確実に大きくなって石の壁に響き渡る。

 見張りたちが恭しく頭を下げるのが見えた。前を行く灰色のローブにやや遅れて、場違いなドレスを着た一人の少女が姿を見せる。

 ……っておい。

 あれルキじゃねーか!


『おおっお嬢ちゃん! マジかよ』

「ルキ、おい、ルキ!」


 三人のローブに囲まれ、悲しげに俯いていたルキは、これ以上ないくらい大きく眼を見開いて俺を見返した。


「や……やや山田さん!?」


 ルキの左手に例のものが握られているのを確認した俺は、すぐさま鉄格子に駆け寄った。


「こっち来い、早く!」

「は、はいです!」


 異変に気づいたローブたちも慌てて動き出したが、前後にしか見張りをつけていなかったせいで、ルキを引き留めるのが一瞬遅れた。

 鉄格子越しに寄り添い合う二人、というわけにはいかない。ルキは非情の刀を持っているからだ。ただ、今回ばかりはその不条理な能力に心から礼を言いたくなった。

 俺を葬り去るべく、村雨が躊躇なく襲いかかる。後は村雨の霊力を信じるだけだ。

 鉄格子が光り、そして激突。

 耳をつんざくような甲高い音が鳴り響いた。

 ……村雨は、俺の計算した立ち位置に従って、南京錠を一刀の許に叩き切っていた。付近の鉄格子もまとめて切断するという素晴らしいおまけまでついて。

 鍵の壊れた出入り口を蹴り飛ばし、俺は通路に走り出た。


「ルキ、来い!」

「はいです!」


 ルキの前方にいたローブが、俺に剣を向けてくる。しかし村雨とルキのコンビネーションほど動きにキレがない。難なく躱し、脇をすり抜ける。


「ギャッ!」


 すぐ後ろで男の悲鳴がした。ルキの前に立ちはだかったローブが、村雨の強烈な一撃を受けて壁に叩きつけられたのだ。俺と村雨の間合いに入り込んだのが運の尽きだった。


『挟み撃ちか。やるねえ』


 俺はただ逃げてるだけなんだがな。


『けどよ、後の連中はお嬢ちゃんの後ろだぜ。村雨の間合いと真逆になる』


 いや、いける。幸いにも通路の先は丁字路だ。


「ルキ、お前は左に曲がれ。俺は右に行く」

「えっ、そ、そんな……ルキも一緒に」

「最後まで聞け。左に曲がったら、すぐに反転して俺のほうを向け。いいな?」

「わ、判りました、です」


 丁字路を右に折れ、即座に振り返る。

 向こう側に走りかけたルキが、こっちに向き直った。詰めかけるローブたちが、次々と間合いに飛び込んでくる。そこを村雨が斬り、突き、払い、また斬る。


「ぎゃあっ!」

「おごわっ!」

「ぐぇっ……!」

「うぅむ……!」


 敵の剣すら折ってしまう村雨を前に、見張り二人を含めた四人が通路の床にどうと倒れ、追跡をリタイヤした。


『悲鳴も万国共通っぽいな』


 ぴくりとも動かないローブたちを、ルキは申し訳なさそうに見下ろしている。だが今は感傷に浸っている暇はない。


「ルキ、この先に空き部屋はないか?」

「空き部屋、ですか?」

「ああ、こいつらの服を着て、仲間になりすますんだ」

「あ、それでしたら、この奥がおトイレになってます。ルキ、丁度おトイレに行くところだったんです。あっち側が男性用だと思いますです」


 俺は限界に達しつつあった尿意を突然思い出し、自然と腰が引けた。

 なるほどトイレか。それでここは丁字路になってるんだな。ていうか、こんな近くにあるなら携帯用便器なんて用意させるなよ。


「なんだか俺とお前の待遇に、埋めようのない格差を感じるな。その結構な服もここのだろう?」

「そ、そうです。すみませんです」

「まあいいけどさ……ん? じゃあお前、俺の寝てる前を何度も通ってたわけか」

「そ、そうみたいです。すみませんです、全然気づかなくて」


 村雨の反応できる距離に俺がいなかったってことか。


『もしかしたら、お前の体じゃなくて意識のほうに反応してるのかもしれないぜ。霊子エーテロンと〈意識〉は不可分の関係にあるんだろ』


 意識、か。間合いに入ったとしても、俺が意識を失っていれば村雨も気づかないと。そういう可能性もあるのか。


「こいつら、あと何人ぐらいいるんだ?」

「え、人数ですか……たくさんいました。ルキが見ただけでも、百人ぐらいは」

「そんなにいるのか」

『実際はもっといるかもな』


 だな。最低でも百人はいると。

 一昨日辺りから、見回りも急に活発になってきているというルキの説明を聞き、俺は早めに次の手を打たねばと思い至った。


「よし、ほかの奴らにバレる前に、早くこいつらをトイレに隠そう。それが終わったら、ローブを脱がして着替えるんだ。ここの一味になりすまして、逃げるチャンスを窺う」

「はいです」

「あんまり時間に余裕はないけどな。こいつらまだ息があるし、そのうち意識が戻るかもしれない。かといって、これ以上痛めつけるのもイヤだろ」


 ルキは幾度も頷き返した。


「そうと決まれば、早速トイレに運ぶぞ。着替えが済んだらここに集合な」

「はいっ!」


 何はともあれ、ルキが無事で良かった。でないとサナギたちにどやされる。合わせる顔がない。


『お前、そういうことはお嬢ちゃんには内緒にしとけよ』


 どういう意味だ?


『なんでもねーよ、このクソ鈍感』


 どういう意味だろう。いや、今は眼の前の作業に集中集中。

 俺は気絶したままのローブたちを運び出す作業に取りかかることにした。とはいえ、ルキに手伝わせるわけにはいかない。もちろんフェミニズムの表れなんかではない。一緒に運ぶと二人の距離が縮まってしまうからだ。それは即ち俺の死を意味する。


「とその前に、トイレトイレ」

「あ、ルキもでした」

 俺は曲がり角の壁を蹴り飛ばす勢いで、トイレへと全力疾走した。

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