3 陥穽の果て、光の果て
ローブ姿の一人が投じた透明の球体は、アルティアを庇ったサナギの肩先を擦り上げた。
「いッ……!」
一切の攻撃を受けつけないはずのサナギの輪郭から、僅かながらも鮮血が散る。
「…………!」
非常にまずい。まずすぎる。サナギの切り札が無効化された。俺を助けるどころか、このままじゃ二人のほうが先にやられちまうぞ。
どうする?
俺はどうすればいい?
ほかに手は、ないのか。
……こうするしかないのか。
『なあ、クシナイアンってなんだ?』
あ? なんの話だ。
『いや、今あの憎たらしいローブどもがそんなこと言ってたから』
いい加減にしろよお前。今はそれどころじゃないんだ。俺は一か八かの賭けに出ることにした。
机の陰から飛び出し、奴ら目がけて突っ込んだのだ。
「追一、ちょっと何してんの!」
「よせ、山田!」
そう、俺は確かに見たんだ。
サナギの肩を掠った球体が、壁を素通りしてその向こうへ飛んでいったのを。
サナギとアルティアを攻撃可能になった透明の球体は、逆に普通の物体には効力を発揮しなくなったんだ。てことは、隠形法にかかっていない、単なる人間に過ぎない今の俺には、あの球体は通じないんじゃないか?
ローブの一人が透明球を投げてきた。
反射的に眼を閉じる。だが、額に命中するはずだった球体は、些かの感触も残さず後方へ飛び去っていった。
オッケー読み通り。これなら、行ける!
傍らのもう一人が、性懲りもなく球体を放ってくる。
が、今度は
俺はそれを左に躱した。同時にバッグから俺の唯一の武器、マークⅡを取り出し、敵の眼前に翳す。
……とうとう俺は、逃げの一手を放棄することになるのか。
引き金に指をかけ、そして。
「うおぉっ!?」
思わず声が出た。
不意にローブ姿が天井へ跳ね上がったのだ。
と、飛んだ?
いや、敵が上空へ逃げたんじゃない。俺の体が下に沈んだみたいだ。
ん……下に沈む?
なんでだよ。下は床だろ?
けれども俺の体は、間違いなく膝頭近くまで床に沈んでいた。
……床にぽっかり開いた、虹色に変色する謎の窪みのせいで。
「な、なんだこりゃ?」
「追一! 大丈夫!?」
「空間を、歪ませた……!」アルティアの声がいつになく上擦っている。「もしやこやつら、地下に住まうクン・ヤン……クシナイアンの末裔ではないか? 失われた神聖言語を話し、独自の物理法則に従い事象を改変するという」
クシナイアン?
「いやしかし、クシナイアンは時代の裂け目に、世界を震駭する者と共にしか出現しない定めのはず。だとしたら、既にワールド・シェイカーは世に出ていて、そして〈禍座〉も……?」
なんの抵抗もできず窪みに沈み込んだ俺は、右も左も判らない凄まじい
全身が揺さぶられる。頭がグラグラする。巨大な洗濯機の中に放り込まれたような、異様な躍動感が四肢を包んだ。それでもどうにか眼を開けたが、暗すぎて何も見えない。
揺さぶりは次第に小さくなり、続いて頭頂のほうへと際限なく突き進んでいく感覚。
いや、これは。
頭から下に落ちているのか。
ごくたまに寝入った瞬間に陥る、あの落下する感覚とは比べ物にならない、どこまでもどこまでも落ち続けていく感じ。もしこの先に堅いコンクリートでもあれば、病院行きどころか確実に即死だ。
……おい、やけに静かだな。とうとう喋るのも諦めたか、ソウル・ブラザー?
『うるせーな。考え事をしてるんだ。邪魔するな』
考え事? 何を今更。俺たちは重力しか存在しない暗闇に突き落とされて、為す術なく落下していくだけなんだぞ。
『聞き憶えがあるのは間違いねーんだ。俺は……俺はどこであの言葉を聞いたんだ?』
言葉?
俺は発言の真意を問い質そうとしたが、頭上が急激に明るくなったのを見て、これ以上こいつに構うのをやめた。
暗闇から一転、周囲は……俺自身を除く全ては、何もかもが純白に輝いていた。落下の感覚はないが、立つための足場もない。
奇妙な浮遊感の直中で、世界の光度はいよいよ強くなっていく。
もう眼も開けていられない。俺は瞼を閉じた。
光は閉じた瞼の裏側さえも明るく照らし、純白に塗り替えた。
ダメだ。眩しい。眼が。潰れる。
あのサングラスをかければ、少しは和らぐかもしれない。藁をも掴む心境で、俺はアルティアのバッグを探ろうとして、はたと気づいた。
ない。サングラスはおろか、バッグそのものが手許にない。
また落としたのか。いつ? 思い出せない。
襲い来る光に喰い荒らされていったのは、視界だけじゃなかった。
意識が……意識までが、
白く、
朧に、
遠く霞んでいく。
……そうだ。あのバッグには、アルティアと〈マグヌス〉を繋ぐ、命綱のタブレットが入っていたはず。手ぶらで戻ったら怒鳴られる。ここんとこ怒られてばっかりだ。
全くツイてない。
『何しょーもねーこと考えてんだ。気が散って集中できねーじゃねーか』
人生の最期に思い浮かべることなんて、そんなもんだろ。
『なんだ死ぬのかお前?』
さあな。
でも、死ぬのも意識がなくなるのも、似たようなもんだろ。
ところで、俺が死ねばお前はどうなる。やっぱり死ぬのか?
それとも、ほかの誰かに取り憑いて生き延びるのか。
『死んだ後のことなんか、死んでから考えりゃいいんだよ』
なるほど。お前らしい。それだけの図太さがあれば、俺の体を乗っ取って生き続けることもできるかもしれない。
『帰れるかどうかも判らねーのに、帰った後の心配してるお前のほうが、よっぽど……だっつーの……ったく……やがって……』
声が、
小さくなっていく。
抗いようのない睡魔がやって来た。
意味のあるものは何もかも遠ざかり、
光だけが、
強烈に、
大きく拡がって、
そして……。
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