第2章 最強の逐電士

1 取り敢えず保健室

「お手上げね」


 溜め息に続いてそう言い、先生は背もたれがメッシュのオフィスチェアに伸びをするように身体を預けた。

 午前十時ジャスト。適度に空調の効いた涼しい保健室は、俺と先生と危なっかしい少女の三人きりらしかった。


「マジすか。先生でもお手上げ?」

「見たことないのはもちろんのこと、話に聞いたこともないわね。こんな症状」


 この寺島京子てらじまきょうこ先生は、うちの高校――完全全寮制である私立金剛智こんごうち高等学校――の嘱託医しょくたくい。御年はもうじき三十路に達しようというところか。整いすぎて少々冷ややかにも見える美貌と、羽織った白衣にすら色気を感じさせるほど均整のとれた長身で、男子生徒の劣情と女子生徒の憧憬しょうけいを一手に引き受ける、大変罪作りな校医の先生だった。

 今日もノンフレームの細長い眼鏡をかけ、才色を見事に兼備した類い稀な面持ちをしていたが、その強張った表情と声には戸惑いの感情がありありと浮かんでいた。

 俺は寺島先生から、その前にちょこんと座る少女の手許へ視線を移す。


「手が無理なら、せめて刃の部分だけでもなんとかしてくれよ。包帯巻くとかさ」

「そうね。もうちょっと厚手の布を巻いておきましょう。ふふ、今度は別のところ斬られちゃうかもしれないし」

「全然笑い事じゃねーッスよ」

「ご、ごめんなさいです」


 謝ったのは少女のほうだ。さっきから口を開く度にか弱い乙女よろしくもじもじしているのだが、片手の得物がその手弱女たおやめぶりを台無しにしている。


「あら、あなたが謝ることないのよ、暁月あかつきさん。わざとじゃないんだものね」

「それ先生が言うことじゃないでしょ」


 口許を綻ばせたまま、先生は戸棚から白い生地を持ってくるよう俺に頼んできた。軽傷とはいえ、俺立派なケガ人なんだけど……。


『そう腐るなや。手当てもしてもらったんだしよ』


 俺はドキリとして、二人のいるほうへ向き直った。双方いずれにも変わった様子はない。進行形で俺の身の上に起きている異変を、少しも気に留めていないようだ。

 やっぱり、俺以外の人間には聞こえていないのか。けれども、俺にだけははっきりと聞こえるんだ。謎の声……それも明らかに男のものと思われる、野太い感じの声が。


『男の声で悪かったな。つーか謎の声ってなんだよ。俺の声は俺の声だろ謎でもなんでもねえ』


 そうだ。そしてこいつは俺の心を読むことができる。つまり、俺の内側にいる存在。だから俺の外側にいる、俺以外の連中には、この声が聞こえないんだ。


しまいにゃこいつ呼ばわりかい。今日びの高校生は礼儀の一つもなっちゃいねーなあ』


 心の別なる声を無視して、言いつけ通り真っさらの布切れを取り出し先生に手渡す。


「どういうことなんスか先生。刀が手から離れないってのは。柄の部分に掌がくっついちゃったってこと?」

「まあね、率直に言えば。けれども、そう単純な話でもないのよ」

「ていうと?」

「指のところを触ってみると、暁月さんの左手は、ただ柄を包み込むように、そっと手を添えているだけなのが判るの」

「じゃあ、引っ張れば抜けるんじゃ」

「それができないのよ。引き抜こうとすると、手のほうがものすごい握力で握り返してくるの。刀が取られるのを拒むみたいに」


 暁月と呼ばれた少女は、恥じらい気味に下を向いてしまった。苗字にも聞き覚えはない。


「本人の意思とは関係なく、ってことスか」

「でしょうね。こんなことをしてわたしをからかうような子じゃないんだから」


 と言って、塞ぎ込んだ少女の頭を軽く撫でる先生。齢の離れた仲好し姉妹みたいだ。


『つーか年の近い親娘に見えるけどなぁ俺には。年増はゴメンだ、パス。お前に譲るわ』


 うるさいんだよお前は。誰だか知らんが。


「それにしても、ちょっと理解しがたいのよね。君が近づくと急に腕が動き出すというのが。条件反射の類いとも違うみたいだし」

「はあ」


 その点も気に懸かるところだ。あんな至近距離にいながら、先生に対しては刃を向ける気配を微塵も見せない。持ち主の意思を介在しないとなると、斬る相手を自ら選び出す刀ってわけか? なんとも傍迷惑な話じゃないか。


「不公平だっての。俺、何度も襲われてんのに……あ!」


 思い出した。俺がプラタナスの上に寝転がっていたとき、鈍い音がして刀が枝に喰い込んでいたのを。


「てことはあれか、俺が寝てた枝にそいつがぶつかってきたのも」

「すみませんです……腕が、勝手に動いたのです」


 またそれか。なんだか狐につままれたような気分だ。


「なあに、君また樹の上で寝てたの? 新学期初日よ。しかもこんな早い時間から」


 手慣れた所作で濡れた刃に布を巻きつけながら、寺島先生がとげのある口調で言う。俺は傍らにある無人のベッドに寝転がって、


「始業式の間だけッスよ。それ終わったらちゃんと行こうと思って」

「怪しいものだわね。その話聞いたら、この学校きっての優等生だったお姉さんが悲しむわよ」

『お前姉貴いるのかよ! なんで今まで黙ってやがった。今度紹介しろや』

「…………」


 これでよし、と先生の声。刀の処置が済んだのだろう。これで下手に近づいても、ぶった斬られるおそれはなくなったわけだ。


『あんま油断すんじゃねーぞ。切っ先で喉元でも突かれたら』


 はいはい了解了解。とにかく、あの日本刀の間合いに入らなきゃセーフだろ。リーチの長さも込みで、安全圏の範囲はバッチリ見極めてる。


「無理に取ろうとするとあなたの腕にも負担がかかるから、しばらくこれで我慢してちょうだいね」

「はいです。ありがとうございます」

「重さはどう?」労るように声をかける先生。「片手でずっと持ってると腕疲れちゃうでしょう。持ち替えるわけにもいかないし」

「肩に乗せるくらいしか対策思いつかないな」


 俺の意見に、少女は俺と先生を順繰りに見ながら、


「その、重くはないです」

「そうなのか?」


 刃の部分は立派な鋼鉄に見えたし、全長からいっても決して軽くはないはずだが。


「ハンカチぐらい軽いです」

「そんなに軽いのか」

「勝手に動くのでなければ、全然平気です」

「益々不可解だわね。ま、それならそれで暁月さん的にはありがたいけれど」

「こ、こちらこそありがとうございます……ルキのために何から何まで、本当に、ありがとうございますですっ……です」


 少女はそう言って何度も頭を下げた。性格は温厚で従順そうだし、悪人でないのは判る。だが、その左手には悪意のない殺意が宿っているのだ。

 俺の心境はなかなか複雑だった。

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