4 なんなんだ、こいつ……?

 俺は少女に歩み寄り、まじまじと刀を見つめた。すらりと伸びた刀身は、少女の瞳のようにみず々しく濡れて光る。俺はふと、刃先の尖端が僅かに赤くなっていることに気づいた。


「君、どこかケガしてない?」

「ケガ、ですか?」

「刀の先にうっかり触ったとか」

「いえ、触ってない、と思いますですけど」


 柄を持っていない右手を開いた少女は、幾度も手を裏返してどこにも負傷がないのを確認した。


「あれ? おっかしいなー。じゃあその赤いのって」

「俺の血? マジかよ」

「はぁ? 嘘だろ、俺どこも痛くないんだけど……って、え?」

「……え?」


 …………。

 ……誰だ?

 ……今の声、誰?

 少女を見る。全く要領を得ない顔でこっちを見ている。


「今……何か言った?」


 プルプルプル。両眼を見開いたまま首を振る少女。


『ちげーよ。俺俺、俺だって』

「…………!」


 ま……まただ。また聞こえた。

 少女の唇はぴくりとも動いていない。それにどう考えても男の声。

 しかも、肝腎の声は

 誰もいない、いないはずの、俺の耳許で。

 何者かの、声がする。


「あっ……!」


 今度は弱々しい叫び声がした。

 今一度少女を見る。叫んだのは、確かに眼の前の女生徒だった。


「き、切れてます、です。腰のところ、Yシャツが、ちょっとだけ……」


 言いながら、少女は心配そうに俺の右脇腹を覗き込んできた。覗き込むのはいいとして、照準を定めるように日本刀を身構える必要は、果たしてあるのだろうか。


「……うわ!」


 悪寒が走る。俺は横に飛び退いた。一瞬前まで俺がいた空間を、濡れた刀身が霧のような飛沫しぶきを飛ばして鋭くぎ払った。


「なっ何すんだおい!」

「ちち違うです、腕が勝手にです、本当です」


 少女は柄を持つ左手を押さえつけるように右手で握り締め、華奢きゃしゃな肩を苦しげに上下させている。


「腕が勝手にって、んなアホな」


 不意に頬を赤らめ、少女は肩をすくめて俺の陰に身を潜めた。肩越しに振り向くと、裏庭の様子を見とがめた数人の生徒が、歩みを止めずにこっちを見ている。

 見られたくないのは判ったけれども、訳もなく俺を斬りつけたり隠れみのにしたり、こいつ実は相当ひどい奴なんじゃないか?

 そんなことを考えていると、


『こりゃあ医務室に直行だな。ケガもしてることだしさ』


 ……またしても声。

 耳許で、眼に見えない、誰かの。

 声だけが聞こえる。


「だ、誰だ? てか、どこにいる?」

『おっと、そこの女に迂闊うかつに近づくなよ。お前逃げ足だけは速いらしいが、護身術どころか武道の心得ゼロだろ』


 だから、お前は一体……。


『俺か? 俺はまあ、今眼が醒めたばっかだから細かいことは知らん』


 今、眼が醒めた、だと? なんだそれ。


『言った通りの意味だよ。呑み込み悪いなお前。ついさっきまで寝てたんだわ、きっと』


 寝てた……きっと? どこで?


『ここで眼醒めたんだから、ここで寝てたんじゃねーの? つーかさぁ、そういうお前こそ誰なんだ。人様の名前を訊く前に、まず自分から名乗るのが筋ってもんだろ』


 そりゃそうかもしれないが。ていうかお前……。

 お、俺の心を読めるのか?


『そういうことらしいな。どうやらにいるみたいだし』


 お、俺の中にって……俺の、心の中か?


『心かどうかは知らん。取り敢えずここはお前の中だろ。そんでもって俺はお前の外には抜け出せそうにない。まっ、そういうことなんで、よろしく頼むぜ、名も知れぬ我が同胞よ! ははははっ』


 なんなんだ、こいつ……?

 何がよろしく頼むだよ。一体何が、どうなってやがんだ?

 俺の困惑を嘲笑あざわらうかの如く、脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かぶ疑問符の数々。

 無為な時の流れは一向に疑問を解明する手助けにならず、腰の辺りにじんわりとした軽い痛みを感じるまでには更なる時間を要した。

 手放すことのできない刀を手にした女生徒と、耳に飛び込んでくる謎の声という非現実的な現実の前に、俺は渡り廊下の喧噪けんそうが収まるまで、為すすべなく立ち尽くすしかなかった。


『いつまで突っ立ってんだお前。いいからさっさと医務室行けよ。お前この学校の生徒だろ?』


 医務室っていうか、保健室……。


『どっちでもいいわ! なんなんだてめーは喧嘩売ってんのか』


 なんなんだ。

 おい、なんなんだ。

 なんなんだ、こいつは?

 こいつは何者で、どうして俺の中にいる?

 俺は……俺はどうしてしまったんだ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る