3ー9.罠

 生活感のない家々が建ち並ぶ通りの屋根の上で、青年は仰向けに寝そべる。不意に彼が手を前に出したと思えば、ちょうど飛んできた短剣を指で挟み止めた。


 青年、ヴァイスは片手でヘアバンドの位置を直しながら上体を起こし、短剣を投げ捨てた。



「あーあ、気づいてたか」


「他に人の気配ないし」



 ヴァイスはゆっくりと立ち上がると、身軽に屋根上へ跳び上がってきたディンに近づく。そして、右手の指で薬の入った小ビンを摘んで差し出した。



「どういうつもりだ?」


「ただのプレゼントだし」



 依然として差し出されているそれ。ディンは釈然としない表情で手を伸ばす。


 だが、その手が届く直前でビンは引っ込められた。同時にヴァイスは服の袖に潜めていた針をディンの手に素早く突き刺し、間合いを取る。



「ったく、つまらねぇ小細工しやがって……」


「プレゼント、喜んでくれたみたいでよかったし」



 ディンは手の平を貫通した針を引き抜き、血の滴る傷口を舐めた。新たに手の平ほどの長さの針を構えたヴァイスに、ディンも短剣を取り出す。


 先に動いたのはヴァイスだった。空いた手で投げられた小さな針を、ディンは短剣で払う。その間に距離を詰められ放たれた長い針での突きも剣腹で弾くと、左手で投擲用の短剣を服の隠しから取り、至近距離で相手の心臓へ投げる。


 それはあえなく針に弾かれるも、ディンはすぐに次の行動へ移り、右手の短剣を相手の額目掛け振り下ろす。


 目まぐるしい攻防の中、両者共に目立った傷は負わず、ただかすった短剣、針がいくつか小さな切り傷を作るのみ。


 いつまでも続くような斬り合いに、不意に変化は訪れた。ディンの攻撃が徐々に鋭さを失い始める。回避もスピードが落ち、躱しきれなかった針が腹部や腕の肉を抉った。


 そして、両者が飛び退いて間を取ったとき。ディンは息を荒くして片膝をついた。



「例のプレゼント、毒塗ってただろ」


「まあね。それがオレのスタイルだし」



 どことなく誇らしげなヴァイスの言葉をディンは鼻で笑う。



「クハッ、必死過ぎ。そんなにオレを殺したいか?」


「何のことか分からないし」


「わざわざ分断するあたり、殺すやつと殺せないやつがいるだろ。アンタ、誰の指示で動いてる?」


「……アリア王の命令だし」



 返事の遅いヴァイスに、ディンはニヤリと笑った。呼吸は荒く、声もかすれているが、その言葉は確実にヴァイスに刺さっていた。



「毒使いならもっと手段は選べるだろ。なのに、お前のやり方には焦りが見られる。おおかた、とちったらお前が始末でもされるってとこか?」



 からかうような物言い。ヴァイスがディンを勢いよく押し倒す。毒が回ったのか、ディンは動かない。



「何も知らないクセに、知ったような口を利くんじゃねえし!」



 長い針がディンの心臓目掛けて振り下ろされる。

 後数ミリで胸に突き刺さりそうな針を、ディンはつかんで止めた。



「なんで、動けるし……」



 ヴァイスがうろたえているその隙に足をかけて転ばせ、馬乗りになり、動きを封じる。



「詰めが甘いっつの」



 ディンはニヤリと口の端を上げる。先程までの弱った様子は、欠片も見られなかった。



「ありえないし! あの麻痺毒は大型の魔物にも効くはずなのに! アンタ、本当に人間か!?」


「クハッ、ひでぇな。人間やめたつもりはないぜ、一応」



 驚きに怯えが混じった叫びに、ディンは笑いながら含みのある言い方で返す。


 ヴァイスを押さえ込んだままその服に手を突っ込むと、赤黒い液体が入った小瓶を取り出し懐にしまう。そして、代わりに何かを取り出した。



「さて、これなーんだ?」


「針……」


「ご名答。お前のプレゼント、オレには合わなかったんで返すわ」



 顔を引きつらせたヴァイスに笑顔を向けながら、ディンはその肩にゆっくりと針を突き刺していく。その目は笑っていなかった。


 頭を振り乱しもがいていたヴァイスの動きがゆるやかになる。



「よし、俺ほどじゃないにせよ毒耐性はありそうだな。まだ口は動くだろ? 話せよ、誰の指示だ。今のロゼリア教の中枢はどこのどいつだよ。言わねぇなら、身体を一部ずつ切り落とす」



 言葉通り指に当てた短剣に力がかかっていく。しかし、ヴァイスが言葉を発する前にその動きがぴたりと止まった。


 ディンの目が、ヴァイスの額を見る。もがいた拍子にヘアバンドがズレたようで、そこにはアリアの紋章に似た荊の模様が刻まれている。ハートのような荊。しかし、アリアの紋章と違ってそのハートは割れているように見える線がある。



「ロゼリア教徒だとは思ってたが、その位置の高さじゃ幹部クラスか? それでオレのこと知らねぇとかある……? まさか本当に嵌められてんのは……」



 ディンはぶつぶつとつぶやく。その隙にヴァイスがどうにか反撃の糸口はないかと目の前で揺れたマフラーをつかんだ。


 戦闘の間にゆるくなっていたマフラーはするりと落ちる。あらわになった首元には、ヴァイスと同じ荊の割れたハート模様が刻まれていた。



「な、ぜ……!」


「さあな。お前に何も教えてくれなかっただろう奴にでも聞けよ。幹部なら知ってんだろ? 誰だよ、今のロゼリア教のトップは」



 また力がかけられて切り口が広がっていく指。それでも話さないヴァイスが、不意にくたりと力を失う。



「なんだよ、気絶したか…………いや、死んでる……? チッ、口ん中に仕込んでたか」



 毒による自死を警戒しなかったのはミスだった。だが、その判断を下すほどの者では口を割ることもなかっただろう。


 ディンはマフラーを直して立ち上がり、屋根から降りる。



「馬鹿だな。義理を立てるような組織じゃねぇだろ、ロゼリア教は」



吐き捨てるように言いながらどこか哀れみを含む言葉は、ヴァイスには届かなかった。

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