第3話 日記
リディアは自室に戻ると、さて何をしようかなと部屋をぐるりと見回した。
「そうだわ、ピアノの先生にお手紙を書かなくちゃ」
お稽古がない時でもきちんと練習して、時々報告の手紙を頂戴ねと言われていたのを思い出し、リディアは書き物机に向かった。お気に入りの便箋と封筒を取り出そうとして、ゴソゴソと引き出しを探る。
「ん? なにかしら、これ」
引き出しの中に、見覚えのない日記が一つ。少しよれているが、紺色の装丁が施された美しい日記だ。手にとって裏返したりしてみるが、全く覚えがない。この書き物机は、リディアが生まれた時に新しく買った物だと聞いているから、以前の持ち主に忘れられた物というのはあり得ない。
「覚えていないくらい、小さな頃に私は日記をつけていたのかしら?」
好奇心で胸をいっぱいにしながら、日記の表紙に手をかける。ゆっくりとそれを開こうとした所で扉がノックされた。
「お嬢様、失礼します」
「エイベル。どうしたの?」
「今日のご予定をお伺いしようかと思ったのですが。それは、日記ですか?」
リディアが机の上に置いた日記に手をかけながら頷く。
「引き出しの中に入っていたの。きっと、小さい頃に書いていた日記なのだと思う」
言いながら、リディアは日記を開いた。
4月9日
突然、日記を書いてみてはどうだろうかと思い立った。
愛おしい妻も、愛らしい娘もいる。この幸せな日々を、書き留めておかなくてはならないと考えたのだ。出先で、適当な店をのぞいてみれば、目を引く日記帳があった。いま、私が日記をしたためているこれがそうだ。少し大仰すぎないかと妻には言われてしまったが、これくらいしっかりとした物を買った方が、最後まで日記を書き留め続けようという気分になるものだ。
さて、今日、日記に書き留めるべき事はこのくらいだろうか。
明日はもっと素晴らしいことが起きると願い、眠るとする。
愛する家族に幸あらんことを。
その後は、ずっと白紙だ。
真っ白いページに、この日記の持ち主は最初の一日だけ日記を書いて満足してしまったのかとリディアは目を丸くする。
「これは、一体……。この屋敷に誰かが? いいや、そんなこと出来るはずがない」
「エイベル?」
家庭を持った男の物と思われる日記が、主人の大切な愛娘の部屋から見つかった。
それだけで、大事件だ。
見知らぬ男が、この場所に出入りした可能性が出てきてしまうのだから。しかし、それはあり得ない、と断言できる。……出来るはずなのだ。このような物が、この部屋から見つかることはあり得ない。屋敷には何十人もの使用人がいる。そんな中、誰にも見つからず屋敷に忍び込み、一番奥の部屋に日記を置いて、また屋敷を出る。そんな芸当、誰にも出来やしないだろう。
「お嬢様、その日記に見覚えはないのですね」
「ええ、でも不思議ね。何でこんな所に日記があるのかしら」
言いながら、くるりとリディアが日記を引っ繰り返す。どこかに持ち主の署名でもないだろうか。
「お嬢様、少し、日記をお借りしても?」
「ええ、どうぞ」
少し強ばった声をしたエイベルを不思議に思いつつも、リディアは日記を手渡した。日記の裏表紙をじいっと見つめるエイベル。ただならない雰囲気を感じたリディアは大人しく様子を伺うことにした。
裏表紙に書かれた紋様を目にしたエイベルは、難しい顔をしながらリディアに日記を返した。
「何かあった?」
「ええ、この日記はお嬢様の元に来るべくして来た、ということが。これは、お嬢様が持っていらっしゃるのが一番良いでしょう。少なくともこの日記の持ち主は強くそう思っています」
「持っていてもいい?」
危ない物だと判断されて、取り上げられてしまわないだろうかと不安げなリディアの顔を見てエイベルは肩をすくめて微笑んだ。
「ええ、何の変哲も無い日記に違いはありません。……ですが、お嬢様。この日記をどうなさるおつもりですか?」
危険が無いとはいえ、気味の悪い物に違いはないだろうにとエイベルが問いかければリディアは悪戯っぽく微笑んだ。
「だって、私はこれからお父様が帰ってくるまでずうっとお屋敷の中で暇を潰さないと行けないのよ。不思議な日記について考えを巡らせるのも、素敵だと思うわ」
一日中、お空を見ながらぼうっとするよりずっとね、とリディアは嬉しそうに日記を調べ始めた。もう一度内容を読んでみたり、引っ繰り返して逆さまから呼んでみようとしたり(勿論、そんなことをしたってさっぱりなにもおこらないのだが)、日記帳の装丁についてじいっと目を懲らして秘密を探ってみたり。
その様子を見て、エイベルは一礼をして部屋を出た。なにやら厄介ごとを連れてきそうな日記であったが、何かあれば自分が対処をしてしまえば良い。それよりも、お転婆なリディアが暫くは屋敷で大人しくしていてくれそうなことにほっと胸を撫で下ろした。
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