第12章 ぐるぐるほっぺの刑

 どさくさに紛れてというのはたぶん今だろう、と健太は木々の中からそっと抜け出して、群衆の一番外側についた。

 怒号の合間にどさっ、ばきっ、など不穏な音が聞こえるが、人が多すぎて中心で何が起こっているのか、よく分からない。ただ、

「16、17……」

 歌うように数を数える声で、父親が無事なのは分かった。

 つーか、何なんだ、その余裕!

 数が30を超えた辺りで、

「おい、これってやばくね?」

 すぐ傍で、声がした。

「ヘタしたら、オレたちまでやられっかも」

 別の誰かが言う。

「俺もう、金いいや」

 群集の中から、一人、こちらに駆け出してきた。それをきっかけに、

「おれも!」

 連鎖反応か、次々に逃げ出す者が出てきた。

「38、39……こら、逃げんじゃねえ!」

「げ、マジやばい」

「やだ、死にたくねえ!」

 数十人が、我先にと、入口への道を目指して向かって来る。逃げる途中、健太にお構いなしにぶつかっていくので、少し身をかがめた時に何人かの手や肩が健太の顔を直撃した。

「痛って……」

 顔を押えてうずくまったら、

「44!」 

 脳天に何か振ってくる気配がした。転がって避ける。顔のすぐ横で土煙が上がった。

「おっと、健太か」

頭上で父親の声がした。危なかったなあ、とけろりと言う。殺す気か!

「息子に、かかと落としなんかすんなよ!」

 膝をついて起き上がったら、目の前がすっかり開けていた。様々なポーズで人が転がっている。あちこちから上がる呻き声が異様だ。死屍累々、ってこんな感じのことを言うんだろうな。

「何だよ、つまんねえ」

 ほとんど逃げちまいやがった、と残念そうだ。

「親父、助かったよ」

 ひとまず最悪の事態は避けられたと思う。健太が礼を言うと、父親は満足そうにうなずいた。にかっと微笑む。 

「じゃあ、次いくか」

「次?」

 孝志が、つなぎの胸ポケットから、マーカーを二本取り出した。一本を健太に突き出す。

「手伝ってくれ」

「どうすんの?」

 見本というので見ていたら、その辺に倒れている奴を仰向けにして、額に大きく“まけ”と書いた。

「何、これ」

「ここまで恥かかされたら、誰にも言いたくなくなるだろ」

 口止めのつもりらしい。一人を百人以上で囲んで負けた、というだけで十分だと思うが。

「“まけ”が嫌なら“にく”でもいいぞ」

「そういう問題じゃねえって」

「まあ、いいや」

 と孝志は言い、怪我人の間を回り始めた。

 健太としては、自分が倒した相手ではないし、敗者に鞭打つような真似はどうも気が進まない。複雑な気分で倒れた連中を見回していると、照明がぼんやり照らしている辺りに、見覚えのある赤髪が見えた。

 あいつ逃げなかったんだ。駆け寄ってみる。

「赤井」

 揺さぶると、

「う……」

 かすかな呻き声がもれた。

「おい、しっかりしろ」

 赤井、と再度呼びかける。腫れた目が少し開いた。

「おれ、は、しろ、い、だ……」

 それだけ言うと、白井はまた気を失ってしまった。 


* * *


「サイン、終わり!」

 顔を上げると、孝志がペンを収めるのが見えた。健太が傍にいたからか、白井は額への落書きを免除してもらえたらしい。

「健太」

「なに?」

「済んだら、どうするって言ってた?」 

 白井から聞いた話では、観客役には、終わったあとで、リーダー格から報酬が支給されるということだった。ただ、潰れた方が逆の場合は、どうなるのか。

「リーダー格ってどいつだ?」

 多分だけど、と健太が健司を迎えに来ていた三人を指すと、孝志はそっちへ向かって行った。伸びている巨漢の胸ぐらを取り、

「おい、起きろ」

 ばしばし頬を張る。ようやく気が付いたでぶヤンから、あれこれ聞き出しているようだ。

「分かった」

 じゃあ、もう少し寝ててくれな、とでかい腹に拳をめり込ませる。でぶヤンは、ぐうという音を発したかと思うと、再びのびてしまった。

「あ、しまった」

 こいつ泣かすんだった、と孝志が言った。

「誰がおっさんだ、ったく」

 はき捨てるように言うと、孝志は一度胸に手をやってから、その手を振り上げた。

「親父?」

 動けない相手に手を上げるような父ではないはずだが。不思議に思いつつ見ていたら、さっきのマーカーで巨漢の顔に何か書き加えていた。

「お前なんか、ぐるぐるほっぺの刑だ」

「親父、むごいことすんなあ……」


* * *


 でぶヤンから聞き出した情報によると、百人余の人間を集めて健司を潰そうとしたスポンサーとリーダー格の連中は、8時半過ぎに、入口に一番近い広場の隅にある、屋根つきのベンチで待ち合わせることになっていた。そこで半殺し状態の健司の写真を見せ、それと引き換えに金を受け取る。その後、あまり正体をさらしたくないスポンサーに代わって、奥の広場で待つ観客役に金を配るという手筈だったらしい。

「けん兄、大丈夫かな」

 最初に孝志に倒されたまま健司は動かない。従兄の身を案じた健太が、父親に尋ねると、

「スポンサーに話つけたら連れて帰る」

 だから、そのまま放っとけと孝志は言った。

 野郎どもがごろごろ横たわる広場を突っ切ると、孝志と健太は、入口に向けて道を進んだ。一番手前の広場まで来て、待ち合わせ場所のベンチを探す。屋根付きのはいくつかあったが、一つだけ、二人の人影が確認できた。

「お前、いい感じで、汚れたなあ」

 歩きながら、孝志が言った。

「みんな、逃げながらがしがしぶつかってくんだもん」

 そのあげくに、地面を転がって父親のかかと落としを避けた。汚れてしまったのはそのせいだ。

「じゃあ、唯一の生き残りってことで、頼むな」

「は?」

 突然、腕をつかまれ、ものすごい勢いで引きずられた。痛え!

 ベンチに座っていた二つの影が、立ち上がった。異変を感じたのか、逃げ出そうとする。

「動くな」

 孝志の一喝で、影が立ちすくんだ。

「座れ」

 後ずさるようにしながら、二人がベンチに戻る。少しサイズが違うが、細長いメガネ君が並んで座るのが見えた。兄弟揃っているのが意外だったが、金を使って屈強な男どもを集めるなんてことが中2の弟一人にできるとは思えないから、当然か。

 健太がそんなことを考えていたら、右腕を後ろに捩じり上げられた。

「痛い痛い痛い! 何すんだよ、おや――」

 じ! と言う前に頭をはたかれてしまった。

「“うるさい”」

 そのまま、さらに兄弟に近づく。

「“百人、二百人じゃ、俺の相手にはならないよ”」

 ほら最後の一人、と捕まえられたまま、健太は前に突き出された。

「だよな?」

 痛え! 肩が抜けちまう! 喚きたかったが、必死にうなずいた。

「マジで、このおっさ――じゃない、この人」

 強過ぎる、全員やられた、と事実そのままを訴えた。

「分かった? 宗田の坊ちゃん」

 健太を脇に突き飛ばすと、孝志は兄弟の前に立った。兄の方の襟をつかんで立たせる。宗田・兄が、がたがた震えながら、ぶ厚い封筒を差し出すのが見えた。

「何? 金で勘弁してくれ、って?」

 そう言って微笑むと、孝志は空いた手で封筒を受け取り、そのまま宗田・弟に投げ返した。

「よく聞け」 

 孝志の表情が変わる。兄の体が少し持ち上がった。その状態で兄弟に言う。

「今後一切、美春には手を出すな」

 二人とも、泣きながらうなずいている。

「“俺にもだ。いいな”」

 健太が見ていても寒気がするような迫力で凄むと、孝志は手を離した。

「で、そこのお前」

 いきなり指差された。オレ?

「さっき、おれ様に向かって、失礼なこと言いかけたな」

 来い、と襟首を取られた。そのまま引きずられる。

「お前はもう少し、痛めつけてやる」

「やだ、もう勘弁して!」

 本気で抗議したが、完全に無視されてしまった。

「助けて、マジで。痛い痛い!」

 自分の状況が情けなくて、途中から本当に気が抜けた。抵抗しても苦しいだけだと思った健太は、力を緩めて半分引きずられるようにしながら、孝志に従った。


* * *


 そのまま、健太は二番目の広場の真ん中辺りまで引っ張っていかれた。

「よし、この辺で、いいかな」

 父親がようやく手を離した。ああ、痛え……。

「大丈夫か?」

「全然、大丈夫じゃねえよ!」

 首が絞まるかと思ったし、さっきは右肩が抜けそうだった、と嘆くと、孝志は拝むような仕草をしながら笑った。

「でもまあ、これで落着、だろ?」

「そだね」

「腹減ったな。金魚野郎連れて、帰ろ」

 奥の広場に戻ると、さっき孝志が倒した連中のうち、何人かが体を起こしていた。座り込んで頭を押えている者もいる。

 が、入口側から孝志と健太が戻ってきたのを見ると、皆、慌てて体を伏せた。

「死んだふりしてるよ」

「おれは、熊か」

 珍しく孝志が突っ込んだ。二人で笑いながら通り過ぎる。

 健司のところに行ってみると、まだ倒れたままだった。

「ここで起こすと面倒だから」

 このまま連れて帰ると言う。孝志が背中で担ぐようにして森を抜け、車まで運んだ。

 フェンスの抜け穴が、二人分に広がった。

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