第5章 でめこは無事か?

 ドアに鍵を差し込んだら、ふと胸騒ぎがした。まさか、部屋荒らされたりしてないよな。

 嫌な心持のまま上がってみる。部屋の中はいつも通りだった。大きく息をつく。

 完璧に片付いてると、こういう時分かりやすくていい。こういう時、といっても他人に部屋を荒らされるような状況なんて、そうそうないだろうが。

 部屋を使わせてもらった時は、来た時の状態で出て行くのがルールだから、基本形は健太も心得ているつもりだ。おそらく、他人が部屋のものを少し動かしただけでも、健司にはそれが分かるだろう。

 ナイフ入りの袋を取り出し、机の上に置いた。

 あの紙、何が書いてあんのかな。

 健司に報告する前に調べてみることにした。なるべく素手で触れないように、注意しながら開いてみる。

 紙に記してあったのは、予想通りの内容だった。

“み はる に ちか づくな”

新聞を切り張りした脅迫状(の現物)なんて、生まれて初めて見た。


* * *


机上の時計は午後5時半を指している。今日は大学院だったかな。心配しつつ電話をかけてみたら意外とすぐにつながった。

「今、話して大丈夫?」

 構わないよ、と穏やかな返事があった。健太は、単車のシートに刺してあった脅迫状について、簡単に説明した。

「へえ」

 他人事みたいだ。なんでそんなに落ち着いていられるんだ?

「で、部屋の中は」

 いつもと変わらない、そう言いかけたら、

「でめこは?」

 急に声色が変わった。

「でめこは無事か?」

「ち、ちょっと待って」

 慌てて水槽をのぞく。

 え? これって……。

「どうした!」

「……」

 どう説明したものか迷った。死んでいないのは確かだが、健司の金魚は泳いでいないのだ。

「健太」

 押し殺したような声が聞こえた。

「なに?」 

「お前に見えている状態を、そのまま伝えてくれ」

 何だよ、この緊迫感。

「水槽の右側、一番手前の隅にいる」

 頭を奥に向けた状態で。

「砂利の上に、座ってるよ」

 でっかいぼたもちを、ぽてっと置いたような感じ。

「たまに、尾びれがちょっとだけ動くけど」

 でも、泳いではいない。

 それ以外に言いようがないので、言葉を切った。

「けん兄?」

 健司の返事がない。何度か声をかけたあと、ようやく反応があった。

「無事で、良かった……」

 声が震えてる? 脅迫状の時とはえらい違いだ。

「でめこって、これが普通の状態なの?」

「ああ。この時間は昼寝してるんだ」

 そのうち泳ぎだすよ、と言われた。

「そ、そうなんだ」

 人騒がせなでめきんだな。思ったが、口には出さなかった。

 気を取り直すと、部屋の中はまったく異常なし、と健司に伝えた。すると健司が言った。

「頼みがあるんだけど」 

 なるべく早く戻るから、自分が帰宅するまでそのままいてもらいたい、と言う。

「分かった」

 問題ないと答えると、健司は安心したように健太に礼を言った。

 健司との通話を切ると、健太は母親の携帯に電話をかけた。こういう場合、一番話をしやすいのが母親だ。

 だが、あいにく話し中だった。かけ直して、三度目でやっとつながった。

「あのさ。今、友達んちにいるんだけど」

 健太は、帰りが少し遅くなると母に伝えた。

「晩メシ、先に食ってて」

「分かったわ」

 やはり、あっさり話を終えることができた。若いだの美人だのと、母については日頃から友達に羨ましがられることが多いが、母の一番の美点は、息子や娘の行動について、余計な心配や詮索を一切しないことだと健太は思っている。全面的に信頼してるという言葉が、口だけでないのがありがたい。

「さて、と」

 もともと勉強するために使わせてもらっている別宅だが、さすがに今は机に向かう気にならない。

 キッチンに常備してある“健太ブレンド”を飲みながら、健司を待つことにした。

 最小限のものしか部屋に置かないようにしている健司も、健太のマグカップだけは認めてくれている。そのカップに、たっぷりお気に入りのブレンドを淹れると、健太はベッドに寄りかかるようにして座り込んだ。

 水槽のでめこは、あいかわらず動かない。

 さっきの健司の慌てぶりを思い出したら、おかしくなった。いつだって冷静なけん兄が、でめきんのことになると、あんな風になっちゃうんだな。

 健太は、この別宅が大好きだった。中学2年から使わせてもらっているが、ここにいると心が落ち着くし、自分がすごく大人になった気がする。

 健司の父の形見だという年季の入った立派な机に、人間工学に基づいて云々のハイテク椅子、本棚には自然科学関係の本と金魚の専門誌、バイク雑誌(バックナンバー3か月分のみ)が見事に背を揃えて並んでいる。

キッチンにある調理道具のいくつかはプロ用だ。服も靴も、健司が選ぶものは何でも良いものに見えるし、身に着ければサマになる。健太が自分でブレンドするほどのコーヒー党になったのも、大型のアメリカンバイクに憧れるようになったのも、大師匠たる従兄の影響だ。

 孝志には、よく“金魚狂(教)の信者”だとからかわれるが、健太にとって、健司のやり方やこだわりは、何から何までかっこよく思えた。

 ただ、時々、完璧な従兄を見て思うことがある。

 ――寂しくねえのかな。

 竹中家が、年がら年中賑やかだからかもしれないが、めったに笑顔を見せない、孤独な人という印象が強い。健司の母親が渡英して、一人暮らしになってからはなおさらそうだ。家でひらく誕生日会や年中行事の宴会に呼べば顔を出してくれるが、父や美春が大騒ぎするのを呆れたように眺めているだけだ。

 一度、家で一緒に暮らせばいいのに、と誘ったことがある。近所に住んでいるのだし、お互い唯一の親戚なんだから、と。

 その時、健司は言った。

“健太の気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくよ”

 そして少し微笑んで、付け足した。

“たか兄のあのテンションに毎日付き合わされるなんて拷問だから”と。

 そんなことを思い出していたら、電話が鳴った。

「わ」

 びっくりした。健司からだった。

「勉強中、悪いな」

 すんません、何もしないでぼーっとしてました。

 健司が再び、頼みたいことがあると言う。その声に混じって、店内アナウンスらしき音声が聞こえた。どこかの店の中にいるらしい。

「何すればいいの?」

 尋ねると、

「袖机の一番下に、工具箱があるから」

 言われた通り、取り出して玄関に持って行く。その後、工具箱の中のメジャーでドアの厚みや、玄関錠を止めているネジとネジの間など、健司が指示する箇所をあちこち測り、報告した。

「工具は帰ったらまた使うから、そのまま置いといてくれ」

「鍵、替えるの?」

 そうだよ、と返事があった。

「買ったら、すぐ帰るよ」

 あと1時間くらいで戻れそうだと言う。

「メシ、作っとこうか?」

「そうしてくれると、すごく助かる」

 親子丼がいいな、と料理の達人にリクエストされ、緊張してきた。

「あ、卵がもうなかったか」

「じゃあ、あるもので何か作るよ」

「いや、買って帰る」

 今日はどうしても“健太の親子丼”が食べたい、と言ってくれた。光栄だ。

 調理がいい気分転換になった。卵を投入する直前までの下ごしらえを済ませると、健太は勉強道具を取り出した。机に向かおうとして、不快なものが目に入る。

 無言、そして変声の怪電話。その次は、ナイフと脅迫状か。

 健太は、先日の美春の話を思い出した。

 美春に告白した少年たちが、すぐに自分から断ってきたのは、やはり何かしらの脅迫を受け、それに怯えたためだろう。

 健司の場合は、運悪く、脅迫電話の後で孝志が中学に出向き“美春の彼氏ごっこ”をしてしまった。あれで、美春の新しい彼氏には電話の脅迫が効かなかった、とみなされた。

 親父も美春も、揃って迷惑かけやがって。

 相手はどんな奴だろう。まあ、誰であれ、声変えて“別れないと殺す”なんて、イカれてる。

 この件、はやく片付かねえかな。

 自分の“聖域”で、心を乱されるのはまっぴらだった。ナイフと紙切れを机の端に押しやると、健太は宿題に没頭した。

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