茶が香る室

 彗華すいか一の豪商、そう璃珀りはくが仕事の合間に休憩がてら妻の室を訪ねると、妻たる霞彩かさいは何故かとても機嫌がよかった。巷で舞い降りた仙女と称えられる美貌に、天界の花が咲き綻ぶかのような笑みを浮かべていて、こちらまで嬉しくなるくらいだ。


 常日頃から笑みを絶やさない妻であるが、これほど機嫌がいいのは珍しい。よほど嬉しい、楽しいことがあったに違いない。


「霞彩、どうした? やけに機嫌がいいな」

「ええ。さっき雷禅らいぜんのところに行こうと思ったら、琥琅ころうと会いまして」


 と、何かを思いだしてか、妻は袂で口元を隠して笑う。義姪めいと何か面白いものでも見たか聞いたかしたのだろうか。


「何かあったのか?」

「いえ、それが」


 妻はもったいぶってそこで一度言葉を切り、嬉しそうな、とっておきの秘密を話すかのような笑みを浮かべた。


「あの子、腕釧うでわをつけていたんですの。それも、雷禅に贈ってもらったのですって」

「腕釧? 雷禅が?」


 璃珀は思わず目を瞬かせた。妻はええ、と大げさなくらいに頷いてみせる。


「それも、とびきり上等な翡翠をくりぬいたものでしたわ。それで私、もう嬉しくて」


 そう興奮交じりに話す妻は、今にも歌でも歌いだしそうだった。


 翡翠。そう聞いて璃珀はすぐに、義息子むすこが実母からもらったという腕釧を思い出した。十年ほど前、義息子を引き取るときに見たことがある。当代の貴妃を輩出した大貴族の正妻が持つに相応しい、最高級の翡翠をくりぬいた腕釧だった。彗華に戻ってからは見なくなったが、こちらへの道中義息子が大事にしていたのをよく覚えている。


「……そうか」


 瞑目する璃珀の口元は自然と緩んだ。


 義息子があの腕釧を義姪に贈ることに、璃珀は何の異存もなかった。確かに高価なもので、買える者はごく一部に限られているが、今更表に出たところで義息子と白家の繋がりなどわかるはずもない。ましてや義姪は義息子の想い人である。喜びはすれど、眉をしかめる理由などどこにあろう。


「あの子ったら、いつの間にあんな高価なものを用意したのかしら。璃珀様があげたのですか?」

「いや、私じゃない。雷禅が前の家から持ってきていたものだよ。母堂があの子にやったものだそうだ」

「まあ……では、口裏を合わせておかないといけませんわね」


 聡明な妻は、璃珀の言いたいことをすぐに察してくれた。頼む、と頷けば、当然のことですわと名の通り美しい笑みを返してくれる。璃珀はこっそり見惚れた。


「これでこのまま、話がまとまるといいのですけど」

「そう上手くいくはずがないだろう。あの二人だぞ?」


 そう簡単に事が進むなら、義息子はあんなにも苦労はしない。璃珀が肩をすくめてみせると、それはそうですわね、と霞彩は口元に袖を当てて笑った。


 琥琅が雷禅のことを特別だと思っているのは、疑いようがない。彼女の世界は間違いなく、雷禅を中心に回っている。彼女と会って璃珀たちはまだ間もないが、それだけははっきりと理解できている。

 が、それが世間で言うところの恋だの愛だのといった甘やかな感情であるかは、大いに怪しい。むしろ違っている可能性が高く、そのために義息子が苦労していることは、璃珀も霞彩もよく知っていた。


「お前もあまり雷禅をからかってやるな。困っているだろう」

「からかってなんていませんわ。二人の仲が上手くいくように、力添えをしているだけです」


 そう小首を傾げてみせる妻だが、本音の七割は、単に義息子をからかいたいだけに違いない。霞彩は大変しとやかで賢い女性ではあるが、義息子の恋路を知って以来、新しい一面を夫に見せつつあった。


 まあ、璃珀も妻と同じように、義息子と義姪が一緒になればと思っているのだ。息子は義姪を異性として好いているし、義姪も彼女なりに彼を慕っている。彼女のことを‘人虎じんこ’――虎憑き、あるいは妖虎の変化と嫌っている親戚連中が黙っていないだろうが構うものか。三代前の帝以前ならともかく、今は先祖を同じくする者同士でないなら同姓であっても結婚が許されている。二人が結ばれることは、決して忌わしいものではない。


 二人の想いは確かにまだ重なってはいないが、二人は互いを大切に思い、労わる気持ちを持っている。だからきっと、人間として異端であるという孤独を埋めあうためではなく、もっと別の形で互いを必要とすることができると思うのだ。それにはまだまだ時間がかかるだろうが、彼らの時間はたっぷりとある。急がずゆっくりと歩んでいけば、きっと心は自分と妻のように繋がるだろう。


 彼らを間近で見てきた日々を思い、微笑ましい今日の出来事を思うと、何だかとても不思議で喜ばしく、誇らしい。暖かな気持ちが胸を満たしていくのがまざまざと実感できた。


「璃珀様? どうなさって?」

「いや……」


 何もかも見透かしたような笑みの霞彩に緩く首を振ってみせ、璃珀は窓の外を見た。義息子と出逢ったときと同じ、よく晴れた空。


 あの日の夜、璃珀は拾った少年の素性についての報告を部下から聞き、彼を正式に引き取るかどうかで迷っていた。彼の才能を垣間見て、上手く育てればいい商人になるだろうと踏んでいたのだ。優れた計算能力や深い洞察力はもちろんのこと、物腰の柔らかさや強い好奇心も彼の武器となりうる。もし彼を引き取り養子にすることできれば、妻に無理を強いなくてもいいし、親族たちを黙らせることもできる。当時、跡取りを設けることができず、気の短い親族たちに妾を持てだの何だのと口うるさく言われていた璃珀にとって、才能ある子供は、身体の弱い妻に無理をさせないためにも必要な存在だった。


 けれど一方で、そうすることによって起きる騒動も予想していた。白貴妃の甥御だと明かすつもりがない以上、どこの馬の骨かもわからない子供に商人の名家を継がせるのかと声高に罵られるのは明らかだったからだ。商家の当主に必要なのは正しい血統ではなく、商売を成功させ家を盛りたてていく才覚であるはずなのに。愚かな者たちのせいで彼が傷つくのは、璃珀の望むことではなかった。


 それにもし、引き取った後に璃珀の子が生まれることになったら、おそらく彼は怯えてしまう。弟が生まれたために殺されそうになった彼に、もう二度とそんなつらい思いをさせてはならない。


 悩みながら床についた璃珀に決意を促したのは、目の前の大人に縋りもせず頭を下げた、誇り高さにも似た絶望を瞳に浮かべた姿だった。


 夜明け前の室で真っ赤に腫れた目をして、寄る辺ない身だというのに去ろうとしていた小さな子供。そのあまりに細い背中、小さな手。涙の跡の残るこけた頬。


 同情といくらかの打算から宿へ連れ去るようにして手を引いたのだけど、あのときはそんなことは欠片も思い浮かばなかった。このまま彼を去らせてはならないと、ただそれだけを思った。


 あれから十年の月日が経ち、少年は青年となり、たくさんのことができるようになった。目をかけて育てた才能は大きく伸び、努力を惜しまぬ勤勉さと柔らかな物腰もあって、璃珀の商人仲間からも綜家の跡取りとして認められつつある。彗華に帰還して以来、引きもきらない縁談がその証拠だ。多くの商人や官吏が次代の綜家も安泰だと思わなければ、あれほどの良縁を綜家の跡取りに寄こさない。


 商人としてはまだまだ未熟だがそれは経験不足だからで、これからいくらだって補っていける。間違えるなら自分が正してやればいい。あの子には綜家の跡取りの重責に負けないだけの実力があると、璃珀は信じている。


 義父上ちちうえのようになりたいですと言ってはにかんだ、いつかの日の幼い笑顔を思い出し、微笑みが自然と浮かんだ。


「あの子も大きくなったなと思ったんだ」



 時が流れ、子供は大きくなる。それを見守りながら、歳を重ねていく。

 それがこんなに幸せをもたらすものだと、思ってもみなかった。

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