翡翠の腕釧・六

らい、入る」


 女性なのに男性的な断りの声に、雷禅らいぜんは顔を上げた。雷禅が応えを言う間もなく、耐性のない者なら即座に気を失う美貌が姿を現す。

 声をかけた後は、応えを待つように。そう言っているのだが、聞く気はないらしい。内心でため息をつき、けれど雷禅は小言を諦めて問うことにした。


琥琅ころう、どうしたんですか」

「本。老師から」


 そう言って琥琅が手渡してくれたのは、数冊の書物だった。どれも西域諸国の民間伝承について書かれたもので、所々に挿絵がある珍しいものだ。以前彼に、話に聞いただけのその書物を読んでみたいとこぼしたことがある。

 独り言めいた呟きを覚えていてくれたのだ。雷禅は嬉しくなった。

 雷禅の喜びをよそに、琥琅は机の上にある腕釧うでわに目をつけた。


「雷、それ、何?」

「ああ、これは義父上ちちうえに引き取られたときに、前の家から持ってきたものですよ。こっちに来るまで、巾着の中に入れてお守り代わりにしてたんです」


 そう言って腕釧をよく見せてやると、琥琅は目を軽く見開いて、綺麗とこぼした。相変わらずの無表情と平坦な声であったが、心底の感嘆がかすかに読み取れた。

 琥琅は腕釧を手に取ると、窓辺に近づいて陽光に透かした。彼女は、硝子玉や宝石を光に透かすのが好きなのだ。

 雷禅は苦笑した。


「気に入ったなら、あげますよ」


 雷禅の申し出に琥琅は目を瞬かせた。


「……いい?」

「構いませんよ。それは元々僕の実母が身につけていたものですし。十年以上も前から引き出しの中に入れたままでしたしね。このままじゃ一生巾着の中でしょうから、使ってやってください」


 雷禅はそう、肩をすくめてみせた。


 過去の話は、琥琅にしてある。別に話す必要のないことなのだが、どうして人前で鳥や獣と話してはいけないのかと問われたときに、何となしに話してしまったのだ。もちろん、彼女は絶対に口外しないと約束してくれた。


 腕釧はかつて、雷禅にとってお守りだった。雷禅の異能を嫌い、しかし我が子を愛するゆえに、ことあるごとに雷禅を叱っては謝る母がくれた唯一の品。この腕釧を見るたび、握るたび、何かあたたかなもので包まれるような気がして、ずっと手放せなかった。


 けれど綜家の子供になって、優しい場所を与えられて。白家の子供だった頃のものを持っているのは悪いことのように思えてきた。いつまでも白家の子供でいるような気がして、義両親りょうしんに対する裏切りであるような気がした。だが捨てることもできず、もうあの頃の自分ではないのだと自分に言い聞かせるために、腕釧を巾着の中に入れ、引き出しの奥にしまいこんだのだ。そうして自分自身の記憶も、奥深くへとしまいこんでしまっていた。


 だが、もういいだろう。そうやって自分を戒める必要はもうない。自分は彗華すいか随一の豪商であるそう璃珀りはくの跡取り息子、綜雷禅以外の何者でもないのだと知っているのだから。


 雷禅は、大きさが合うかわかりませんからつけてみたらどうですか、と琥琅に勧めた。日々鍛えているのに何故か細い琥琅の手首だからつけられると思うが、念のためだ。これでもし入らなかったら意味がない。


 恐る恐るといった様子で腕釧を通す琥琅を眺めながら、いつか金が貯まったら、そのときに改めて琥琅に何かを贈ろうと雷禅はこっそり決意する。想い人への贈り物を貰い物で工面するのはどうも情けない。そのくらい、自分が稼いだ金で買いたい。

 琥琅への贈り物は何がいいだろうか。女装を嫌う性質を考慮してまず着物や簪、歩揺は外すとして、何を贈れば喜んでくれるだろう。結い紐、耳環、首飾り、指環。それとも宝石を原石のままで贈ったほうがいいのだろうか。


 獲らぬ狸の皮算用をしている雷禅の胸中など欠片も知らず、琥琅はふわりと微笑んだ。清楚な花が咲き綻ぶような笑みに、雷禅は息を呑む。


 翡翠の腕釧は、細い手首にちょうどよい大きさだった。

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