翡翠の腕釧・五

 深い深い眠りに就いていた雷禅らいぜんは、とろとろと目を覚ました。


 何度も目を瞬かせているうちに、雷禅の意識はゆっくりと覚醒し始める。真っ先に頭に浮かんだのは、優しい男の人だ。それと連鎖するように、眠る前の出来事が次々と思いだされる。


 室の中の様子は薄暗くて、ほとんどわからない。でも空が自分の瞳に似た色だから、夕暮れを過ぎて夜になる直前くらいなのだろう。雷禅はそう考えた。璃珀りはくにここへ連れてこられて食事したのは午過ぎだったから、軽く二刻は寝ていたことになる。


 なんてことだ。服を用意してもらったばかりか、一月ぶりに満腹になるまで食べさせてもらったというのに、そのうえ寝てしまっただなんて。何だかとても悪いことをした気がする。


 そこであることに気づいた雷禅は、慌てて服の中に手を突っ込むと、首にかけていた紐を引き上げて巾着を出した。

 二羽の雀と一輪の牡丹、舞い散る花弁を縫いとりした巾着。布地の手触りを確かめなくても、裕福な者の持ち物だと一目でわかる。


 この巾着の中には、雷禅の母がよく身につけていた翡翠の腕釧うでわが入っている。雷禅の異能が明らかになるきっかけとなった腕釧。あの後、母が雷禅にこれをお守り代わりにとくれたのだ。息子に対する畏怖が母の心に芽生え始めていたことなどまったく知らなかった雷禅は純粋に喜び、この巾着の中に入れていつも持ち歩いていたのだった。

 邸を出るとき、雷禅はこの巾着を持っていくことを望んだ。手放したくなかったのだ。何度も失くしそうになり、これのために危ない目に遭ったこともあるけど、それでも手放す気にはなれなかった。


 腕釧を巾着ごと握りしめ、雷禅は巾着を服の中に戻した。――――もう出ていかなくては。


 寝台から降り、手さぐりで扉までどうにか歩く。

 雷禅はそこで、はたと気づいた。


 さっきからやけに静かすぎないか。窓の外も廊下からも、薄暮の時間ならあるはずの、人のざわめきが聞こえてこない。


 もしかしてと思って、雷禅は薄暗がりの中、扉をそっと開けてみた。

 予想通り、室内だけでなく廊下も暗く、しんと静まり返っていた。誰もいない。ぽつりぽつりと等間隔に置かれた灯りがちろちろと揺れている。


 雷禅は、すぐに状況を理解した。夕方ではないのだ。昼間に寝入ってしまってから、自分はなんと、夜明け前まで眠っていたのだ。


 自分がどれだけの間眠っていたのか計算した雷禅は、自分の長すぎる睡眠時間に脱力した。それなら皆が寝ていて当然だ。というより、どうして自分がこれほど長い時間眠っていたのかが不思議でならない。


 ともかく、これ以上時間を潰しているのはよくない。もう出ていったほうがいい。残念だけれど、璃珀たちに礼を言うのは諦めたほうがよさそうだ。


 そう結論を下した雷禅は、室を振り返って瞳を揺らした。


 璃珀は、雷禅の素性に気づいただろうか。気づいていないだろうとは思う。雷禅は庶民が着ている服を着ていたし、巾着は長い紐を通して首にかけ、服の中に隠してある。雷禅が大貴族の長子であるとわかるものは、一つとして彼の目に留まっていないはずだ。


 でも、それでももし、わかってしまっていたら。


 邸に戻ったところで、自分に居場所はもうないのだということはわかりきっている。邸に住む者たちは両親も含めて皆雷禅を嫌っている。戻ってもまた以前のような日々が繰り返されるだけだ。あるいはすぐに殺されてしまうかもしれない。雷禅は要らない子供なのだから。――化け物なのだから。


 だからここから早く出ていくのだ。璃珀が雷禅の素性に気づいて、邸に知らせる前に。早く逃げなくては殺されてしまう。死にたくない。


 ――――でも、じゃあ次はどこへ行く?


 こんなふうに、親切な人に助けてもらって、危なくなったら出ていって。これからずっとそんな暮らしをしていくのか。帰る場所もなく、いつ家に連れ戻されるかと怯えながら生きていくのか。


 そう思った途端、雷禅はとても悲しくなった。喉の奥が痛くて目の周りが熱い。何かが胸の奥からあふれ出てきそう。


 声が漏れかけて、雷禅は慌てて唇を噛みしめた。それでも唇の端がひくひくと歪み、嗚咽がこぼれそうになる。目頭がひどく熱い。

 こらえようと思ってもこらえきれず、雷禅はとうとうしゃがみこんで、声を押し殺して泣きだした。


 もう嫌だ。寒いのもひもじいのも、一人ぼっちなのもうんざりだ。石をぶつけられるのも腕をきつく掴まれるのも、怒鳴られるのも、嫌われるのも。みんなみんな嫌だ。


 一人でいても、鳥や獣たちが助けてくれる。もちろん鳥や獣のすべてがそうではなく、冷たい者もいた。大きな犬に追いかけられたり、烏に嘘を教えられてひどい目に遭ったこともある。けれど気のいい者たちも確かにいて、雷禅に金や食べ物や飲み物をくれた。知らない人たちが助けてくれた。彼らに助けてもらって、どうにか生きてこれたのだ。


 けれど、さみしいという気持ちは消えない。家族と手をつなぐ子供たちを見るたびに、夕暮れの空に小さな家から昇る煙を見るたびに、羨ましくて悲しくて泣き出したくなる。


 頭を撫でてほしい、笑いかけてほしい。ぶたないでほしい。暖かな場所で、優しい家族に囲まれていたい。

 大好きだと、抱きしめてほしい。


「……雷禅?」


 かけられた声に雷禅ははっとして顔を上げた。背の半ばまで届く黒髪を下ろし、寝間着の上に衣をかけただけの璃珀がいつの間にか立っている。


「り、璃珀さん」


 雷禅は慌てて目をこすり、けれどすぐに俯いた。恥ずかしくて顔なんて上げられなかった。


 璃珀は困ったような、戸惑っているような声で言う。


「雷禅、泣いているのか? 怖い夢でも見たのか?」

「違い、ます……」

「じゃあ、どうしたんだ?」

「…………」


 優しい問いかけだったが、とても言えなかった。貴方と一緒にいたいだなんて、そんなことを言えるはずがない。


 ここにいたかった。この人は優しい。心から優しくしてくれるのだと、何故か信じられる。安心できる。部下の人たちも優しかった。この人と一緒にいられたらどんなにいいだろう。


 けれど駄目だ。雷禅は人にはない力を持っている。そのことを知ればきっとこの人だって雷禅のことを嫌う。この力を持っている限り、誰かと一緒にいることはできないのだ。


 早く礼を言わなければならない。言って出ていかなければ。邸の者たちが来る前に。


 目を何度もこすって涙を拭いた雷禅は、意を決して顔を上げた。涙がまたこぼれないよう、唇をかみしめて一礼する。


「服とか、ご飯とかくださってあり、がとうございました」


 涙は出なかったけれど声が震えた。それが悔しくてまた涙が溢れそうになった。


「出ていくつもりなのか」


 璃珀は軽く目を見開いた。不思議なことに、彼は雷禅の決意を見透かしていた。

 これには雷禅のほうこそ驚いた。


「どうして……」

「そんな言い方をされれば誰だってわかるさ。――行くあてはあるのか」

「……」


 雷禅は俯いた。そんなものあるわけがない。あればとっくにそこへ行っている。


 しばらく黙っていた璃珀は、明かりを床に置き、膝をついた。気配と下から灯る明かりに顔を上げた雷禅は、覗きこんでくる璃珀の真剣な表情に目を瞬かせる。


 重々しい、けれど静かな声で問うてくる。


「雷禅。私の養子に――家族にならないか」

「……え…………?」


 あまりにも予想外な誘いに雷禅は驚くよりも唖然とした。目は限界まで見開かれ、頭の中が真っ白になる。


「私は君が何者なのか知っている。君が関貴妃の甥御であることも、半年前から行方不明になっていることも。君が持つ力についても。全部調べがついている」

「……!」


 雷禅の背筋に電撃が走った。全身がすうっと冷えていく。まさか、もう――――

 雷禅の考えを見通したかのように、璃珀は軽く首を振った。


「君がここにいることは、君の父君には伝えていない。君が邸に帰りたくないのは、君の様子を見れば明らかだったからね。私の従者たちにも、君のことを宿の者に話さないよう言ってある。安心しなさい」

「……」


「私には妻がいるが、子供はいない。妻は体が弱くてね、子供が欲しくても無理をさせられないんだ。もし君が私の子供になってくれるなら、君は綜家の跡取りになる。君の家と比べればずっと軽いが、私の後継ぎという肩書が君を縛ることになるだろうし、これから先、私たちに子供が授からないとも限らない。もしそれが嫌なら断ってくれて構わない。それでも君の両親に君のことは伝えない。他に君を引き取ってくれる人を探そう」


 雷禅はすぐにその申し出の意味を理解した。結局自分は、誰かの跡取りという立場にならざるをえないことを。けれど、それを断ることができることも、断ったとしても、璃珀は雷禅を両親のところへ帰すつもりがないということも、雷禅の頭の中にすんなりと入っていく。


 理解して、雷禅は呆然とした。


「…………どう、して」


 何もわからなかった。彼の言葉が本当なのか嘘なのか、雷禅の異能を知っていて、どうして彼が家族にしようと言ってくれるのか。――――どうしてこれほど優しいのか。


 これは夢なんじゃないだろうか。家に帰りたくない自分が見た、新しい家族を見つけるという優しい夢ではないだろうか。


 だって自分は要らない子供なのだ。鳥や獣の声を聞くことができる。母にさえ疎まれた。璃珀だって変だと思っているに違いないのだ。なのに、どうして。


 そんな雷禅の混乱さえ璃珀は見通していた。彼は微笑んだ。優しい優しい笑顔だった。


「私は君を気に入ったんだ。それで充分だろう?」


 そう言って、璃珀は雷禅の頭を撫でた。

 雷禅はもう限界だった。我慢できなかった。

 涙が溢れた。


「…………っっ」


 拳を握りしめ、唇を噛みしめて、声を押し殺して雷禅は泣いた。もう流しきったと思っていたのに、涙は次から次へと流れていく。体中の水を外へ流しだそうとでもしているようだ。


「た、たくさん迷、惑かけちゃい、っます…………っそれに、鳥さんや、犬にも、話、しかけると思います…………」

「構わないよ。それが君の力なのだろう? 妻も素敵な子供ができたときっと喜ぶ」

「……っ」


 すり、と首筋から前へ引き寄せられ、体中が暖かくてよい匂いがするものに包まれた。あやすように背中を叩かれ、こらえきれず雷禅の嗚咽は大きくなる。

 暖かな人の首に抱きついて、雷禅は赤子のように泣いた。

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