翡翠の腕釧・四

 宿泊先である邸店――行商人専用の宿――に戻ると、璃珀りはくはまず店の者に湯を用意させ、室の隅で埃だらけの雷禅らいぜんに湯浴みをさせた。使用人をつき添わせようとすると拒んだので、好きなようにさせる。


 隣の室で彼が出てくるのを待っていると、従者の一人であるちょう紀燕きえんが小声で問うてきた。四歳年上の、少年の頃からの従者は、長年の付き合いだけに今も気安く話しかけてくる。


「旦那様、まさかとは思いますけど、さらってきたんじゃないですよね」


 言い方こそ心配そうであるが、ふざけた色の口調だ。璃珀は肩をすくめてみせた。


「私が人買いの真似事をするはずがないだろう。拾ったんだ。茶葉屋で店主が計算間違いをして、本来の金額より多く清算したのを指摘してくれてな。あの身なりと顔色を放っておけないし、礼ということで連れてきたんだ」

「何だか新手の子さらいに聞こえなくもないですね。しかし、旦那様が計算違いに気づかなかったとは、珍しいこともあるものです」


 と、紀燕は悪戯そうに笑う。璃珀は苦笑した。


「私は茶に関してほとんど知識がないからな。値札を見ずに、適当に頼んだんだ」

「なるほど。――でも旦那様、いいんですか? あの坊ちゃん、礼儀正しいですし、もしかしたら」


 そのときかちゃりと音がして、少年が室に入ってきた。紀燕は言いかけた言葉を飲み込む。


 湯浴みをしてきた雷禅は、入る前とは随分と様子が違っていた。体中の泥や埃を落とし、いくらか血色がよくなって肌に赤みが差して、幼くも整った容姿に磨きがかかっている。妻が考案した、新緑の地に刺繍が施された服もさまになっている。今はまだ少し違和感があるが、彼が自身の健康を取り戻せば、貴族の御曹司にも豪商の子息にも見えるに違いない。


 これでよく人さらいに遭わなかったなと思う。ある種の嗜好を持つ高官や金持ちが欲を満たすために、人買いから見目の良い子供を買うというのは聞いたことがある。法で厳しく取り締まられてはいるが、それでも買う者はいるものだ。そういう特殊な性癖の人間からすれば、この異民族系の美少年は垂涎の的だろう。家族も道連れの大人もいない、一人だと言っていたし、今まで彼が無事にいられたのは奇跡じみた偶然のおかげだろうと思われた。


 紀燕も破顔した。


「こりゃ見違えたな」

「あ、ありがとうございます。でも、この服…………」

「気にするな。では雷禅、昼食にしよう」

「は、はい」


 席を勧めると雷禅は素直に座る。紀燕が下がり、二人だけになる。

 手近の皿に載る料理を一口食べた雷禅は感嘆の声を上げた。


「美味しい……!」

「だろう? 私もここの料理は気に入っていてね。この街に着いたときは、いつもこの宿に泊まるようにしているんだ」

「いつもって、璃珀さんは交易商人なんですか?」


 雷禅は目を瞬かせる。璃珀は微笑み、ああ、と頷いた。


彗華すいかというところから来たんだ。よく私が商人だとわかったな」

「さっき、璃珀さんがとってる室に色んな服とかが置いてあるのが見えたんです。それにこの宿の敷地に倉がありましたし。敷地にお客さん用の倉があるのって、行商人専用の宿だけなんでしょう? だから商人なのかなって思ったんです」

「なるほど。君は賢いな」


 褒めると雷禅ははにかんだ笑みを浮かべる。やっと浮かんだ笑みに、璃珀は嬉し

くなった。


 食事をしながら、自分は西域や他の地域の商人とも取引しているのだと璃珀が話すと、雷禅は目を輝かせて話を聞きたがった。どんな土地に行ったことがあるのか、そこにはどんな珍しいものがあるのか。話すほどに雷禅は感心し、食事が終わっても話を聞きたがった。


 談笑をしているうちに、璃珀は彼が並々ならぬ賢さを備えていると思わざるをえなかった。知識こそまだまだだが、頭の回転が速く、璃珀の説明をすぐに理解しては質問を返してくる。その質問も的外れなものは少なく、子供が考えるにしては筋の通ったものだ。


 まるで打ち捨てられた原石のような少年だ。話をしながら、璃珀はそう思った。岩石の合間から覗く輝きを見れば、磨けばさぞ美しかろうと想像できる。


 雷禅の目がとろんとしてきたので、寝椅子に寝かせた。服を貸したときとは違い、促すとすんなりと雷禅は寝椅子に横になる。よほど眠たかったのだろう。毛布を持ってこさせようと紀燕を呼んだときにはもう寝入ってしまっていた。


 睫毛の一本一本までくたりと落ちた、疲れきった寝顔だった。けれどその疲れがあちこち遊びまわってのものではないことは、目元の隈や痩せた頬を見れば明らかだ。絶え間なく続く極度の緊張、空腹、孤独。子供が味わうべきではない苦しみに責め苛まれていたのだろう。それらが彼の心身を消耗させていたに違いない。


 七歳といえばまだまだ親が恋しい歳だろうに、たった一人で気を張りつめて、こんなに痩せてしまって。雷禅が過ごした孤独な日々を思い、璃珀は哀れでならなかった。


 璃珀は、雷禅が何か事情を抱えて一人でいるのだと気づいていた。見た目からしてそうだったし、この宿へ来る道すがら、いくつか問いかけたとき、嘘をついているのだと言っているかのように挙動不審だった。何より、家族について問うたときの凍てついた表情。答えを聞くまでもない。


 あの表情の意味が、本当に家族がいないからなのか、それとも家に居場所がないからなのかはわからない。だが良家の子弟かもしれないとは思う。座る姿勢は良かったし、正しい礼儀作法をある程度身につけていた。あの計算能力といい、物乞いや庶民と考えるよりも、幼い頃から作法や学を学ばせる傾向にある富裕階級の育ちと考えるほうがしっくりくる。


 いずれにせよ、雷禅に帰る場所がないことには変わりない。

 こうして出会ったのも何かの縁だ。何とかしてやりたい。


 璃珀は自分の胸にあたたかな気持ちが沸き上がってくるのを感じながら、雷禅に毛布をかけてやった。

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