翡翠の腕釧・三

 新しい契約先の店と商取引を終えた彗華すいかの大商人、そう璃珀りはくは、商店や料理店が連なる大通りを歩いていた。


 璃珀の妻である霞彩かさいは、茶の愛好家であった。何せ彼女の実父は大変な茶好きで、茶葉専用の蔵を邸の一角に建ててそこに国中の茶葉を収集し、個人で楽しむばかりでなく、知識人や高官を集めて品評会を催すような人物である。茶葉についての詳しい知識を学ぶことにも余念がなく、自ら新種の茶葉を作ったり、さらには茶についての専門書を著しさえしたので、親しみと揶揄両方の面から‘茶痴’と呼ばれている。璃珀が妻と出逢ったのも、彼女の実父が催した茶会でのことだった。


 そんな父親の薫陶を幼い頃から受けていたのだから、妻が茶を愛好していて当然である。妻が父を真似て倉庫を建てようとしたことはないが、璃珀が取引などで国内の諸都市へ赴くたび、その地域特産の茶が欲しいとねだるのはいつものこと。そして仕事の合間や二人の時間の折に、璃珀が買ってきた茶を入れてくれるのだ。その時間を璃珀はとても愛していた。


 華燭の典を挙げて早数年。継いだばかりの綜家当主としての仕事に追われ、璃珀はなかなか二人の時間を持てないでいた。交易商人である綜家が商取引をするのは西域や国内の諸都市で、大抵は部下に任せているが、璃珀が行かなければならないこともあるのだ。妻もまた、綜家お抱え職人たちに混じって新しい衣装や装身具を考案することに熱を入れていて、一日中工房に籠っているのはそう珍しいことではない。そんなふうに互いが昼も夜も忙しく、また妻の身体がそれほど丈夫でないためか、綜家にはまだ一族が待ち望んでいる跡取りが生まれていなかった。


 跡取りのことは、自分たちはまだ若いのだからそう焦らなくてもいいと璃珀自身は思っている。皇帝や貴族でもないのだし、血のつながった跡取りに固執する必要もない。いざとなれば、一族かどこかの商人から養子をとれば済むことだ。


 だが周囲はそう思っていないらしく、特にここ最近、数人の頭の固い、跡取りを期待できない虚弱な嫁などもっての他と二人の婚姻に反対していた親族たちが、ここぞとばかり璃珀の妻に色々と吹き込むようになっていた。璃珀自身にも、妾を持つよう勧める声がいくつもあがってきている。璃珀はこの煩わしい戯言に、近頃頭を悩ませていた。


 璃珀は、妻以外の女をそばに置くつもりなど毛頭ない。ただ一人、心から愛した女性がいればいいという信念だけではない。妾の子である自分と正妻の子である異母弟のどちらを跡取りにするかで一族が揉めたことを知っているから、たとえ正妻と妾で地位に差があるとしても、複数の女性を囲う気になれないのだ。妻が戯言を真に受けて、沈んだ顔をするようになったことも許せない。


 そういうときに妻を慰め、璃珀を励ましてくれるのは、二人のことを理解してくれる古参の使用人たちであり、異母弟の瓊洵けいじゅんであった。長期間外出していても家のことでさほど悩まずにいられるのは、彼らがいるからだ。特に瓊洵は、生来の奔放な気質からか邸にあまり居つかず、隊商の護衛と武者修行に明け暮れていたのに、近頃は邸で兄嫁の相手なりうるさい親戚を追い払うなりしてくれている。粗忽なようでいて、実は周囲の空気に敏感なのだ。それは武人として、瞬時に相手や状況を見抜かなければならないためか。璃珀もあの察しの良さに、何度も救われた。


 とはいえ、それは所詮応急処置のようなもの。いずれはちゃんと跡取りを作り、親族を黙らせなければならないのだろう。だが、妻の丈夫でない体のことを思うと気が重くなる。


 他の茶葉屋よりひときわ大きな茶葉屋を見つけ、璃珀は暖簾をくぐった。酒楼を兼ねているのか、茶葉を並べた壺だけでなく、卓や椅子も置かれている。それなりに人が入っていて賑やかだ。


 もう相当な高齢であろう白髪の店主に、特産の茶葉とついでに何種類かの茶葉を注文する。そして言われたとおりの金を渡したときだった。


「おじいさん、勘定間違ってるよ。銀五十枚高いよ」


 そう指摘したのは、番台に近い卓で茶を飲んでいた子供だった。歳はおそらく十にもなっていないだろう。灰白の髪と縹色の瞳だから、蘇虞そぐ人の血を引いているのだろうか。着ているのは汚れきった庶民の服で、顔色は悪く頬がこけている。ろくに鋏を入れていないのだろう、目にかかるほど前髪が長く、後ろも紐で括りさえしていない。茶葉屋の客層からおよそ外れた外見だ。食べ物をろくに口にしていないのは明らかだった。

 老店主は首を傾げた。


「おや、そうかの?」

「うん。もう一回計算してみたら?」


 少年に促されるまま、老店主は算盤でもう一度計算しなおす。すると少年の言うとおり、璃珀が払った金額は本来の金額よりも銀五十枚高かった。老店主は頭を掻き、申し訳なさそうに璃珀に差額を返した。

 店主から金を返してもらいながら、璃珀は内心で軽く驚嘆した。


 太平の世である昨今、親の意向により、幼くてもある程度の文字の読み書きや算術ができる子供は決して少なくない。璃珀自身、物心ついてほどなくしてから学ばされたし、瓊洵もそうだった。

 だが、これほど速く正確に暗算するとなると、あの歳の子供ではまず無理だろう。ふたつみっつではないし、ひとつひとつがそこそこの値段である。ただ算術ができるというだけでは計算できない。大陸東西交易を牛耳る交易の民の子供だとしても、歳を考えればちょっと普通ではない計算能力だ。


 二人のやりとりの間に少年がそっと店を出て行くのが見え、璃珀は急いで店を出ると、眼前の雑踏に少年を探した。さいわいにもすぐ見つかり、駆け寄って呼び止める。どうにか間に合った、と内心でほっと息をついた。


 少年は振り返り、疑問と警戒を露わにした顔で璃珀を見上げた。その、夜明けの色をした、宝石のようなくもりのない瞳。


 璃珀は一瞬、少年の大きな瞳に吸い込まれそうになった。


「貴方はさっきの……」

「さっきは助けてくれてありがとう。よく間違いだとわかったな。君はあの店の子なのか」

「い、いえ、違います。さっきのは、貴方があの茶葉を買うのを見てたから、すぐ計算できただけで」


 だろうな、と璃珀は思った。この身なりであの大きな茶葉屋の店員とは考えにくい。老店主の身なりはきちんとしていたし、店内も整然としていた。


 璃珀は少年に笑顔を向けた。


「礼と言ってはなんだが、もう午過ぎだし、昼食でもおごろう。それとその服も」

「え、そんな」

「気にしなくていい。いくら専門外で値札をまったく見ていなかったとはいえ、商人であるなら気づくべき金額の間違いに気づかなかったのを、君は指摘してくれたのだから。それに君は、自分ではわからないだろうが顔色がとても悪い。頬もこけているし、少なくてもこの数日は、食べ物を口にしていないのだろう?」

「……」


 少年は躊躇いがちに頷く。決まりだ、と璃珀は少年の手をとり歩きだした。


 どこからどう見ても寄る辺ない、栄養失調気味の少年なのだ。少しくらい親切を押しつけたところで、文句は言われまい。


「言うのが遅れたが、私は綜璃珀という。君は?」

「…………雷禅らいぜん


 少しの間瞳をさまよわせた少年は、ぽつりとそう答えた。

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