翡翠の腕釧・二

 しん国皇都、貴晋きしん。雨が降りしきるその片隅、人気のない裏通りに、その少年は座り込んでいた。


 今朝、少年は自分が生まれ育った邸を抜けだした。正確に言うなら家出だ。もう戻るつもりはない。生きるためにはそれしかないと思いつめての行動だった。


 というのも、父と祖父母が彼を殺す計画をしていたからだ。実の子である彼を、どこかへ閉じ込めよう、いやいっそのこと事故に見せかけて殺してしまおうと。それは伝聞に過ぎなかったが、彼に家出を決意させるには充分だった。


 当然のことではあった。家族を含め、邸の者たちは総じて彼を疎んじていたのだ。母にぶたれ父に無視され祖父母に罵られるのはいつものことだったし、使用人たちも皆、腫れ物にでも触るように少年に接し、極力関わらないようにしていた。人間としてまともに扱われず、空気に溶けてしまったような感覚に陥ったのは一度や二度ではない。


 他に男子がいなかったから、少年は今まで生かされてきた。だが、新たに男児が生まれた今、少年が跡取りである必要はまったくなく、生かしておく理由もない。これ以上家名に傷をつけないためには、存在するだけで人の噂になる長男を始末しなければ――――大人たちがそんな結論に達するのに、それほど時間はかからなかっただろう。


 栄華を極める邸の大人たちが、血を分けた幼い少年を疎んじ、殺そうとする理由。それは、とても簡単なことだ。


 少年は、異能を有していた。


 人とは違う能力を持つ者は、この世に多くはなくても存在している。現に少年の生家にも術者が一人出入りしていたし、宮廷お抱えの術者だっているのだ。人とは違う能力を有していることそのものは、清国、特にこの都においてはそれほど異端視されるものではない。


 だが、少年が持つのはそうした素質を努力で育んだものではない。育てられたものではない、素のままの能力だ。あらゆる鳥獣と、人と話すように語りあえる能力。常人には持ちえないその異能が、少年の物心ついたときからの孤立を決定していた。


〈人間ってやつは、嫌いだったり邪魔だと思うなら、自分の子供だって平気で殺せるんだよ。血がつながっていようと、結局は他人だからね。どんなことだって、やろうと思えばできる。猫なんかよりずっと惨い、ひどい種族さ。だから早くお逃げ。殺されてしまうよ〉


 少年が物心ついたときから邸にいる、父と祖父母の会話を教えてくれた雌の老犬はそう言った。


〈子供のあんたなら、門番の隙を見れば逃げることができる。私が隙をつくってやるから、その間にお逃げ。いいかい、どんなことがあっても決して振返っちゃいけないよ。外に出たら、人ごみの中へ紛れて逃げるんだ。都の中には犬や鳥がいくらでもいるし、中にはあんたのことを知ってるのもいるだろうからね、そいつらに色々と助けてもらいな〉


 忘れるんじゃないよ、と彼女は鼻で彼の背を押してくれた。


〈どんなものにだって、捨てるやつがいれば拾うやつがいるもんだ。あんたは実の親に殺されかけてるけど、世界は広いんだ。探せば一人くらい、あんたの力を知っても平気でいてくれる奇特な奴が見つかるだろうさ。――――私は大丈夫だから、そいつと逢うまで、死ぬんじゃないよ〉


 彼女はあのあとどうなったのだろう。門番の隙を見て飛び出した邸から、彼女の声が聞こえた。


 少年は首を振るった。涙がとめどなくこぼれていく。


 彼はおぼろげでも、昔のことを覚えていた。今よりもっと小さかった頃のこと。その頃の母はとても優しかった。父は頭を撫でてくれて、祖父母はよく構ってくれて。使用人たちが笑顔でたくさんの料理や玩具を運んできてくれた。


 少年が今よりも幼い頃は、誰もが彼を愛してくれていたのだ。

 なのに、あの日からすべては変わってしまった。


 あの日、彼はただ母に喜んでほしかった。美しい腕釧うでわを、母はとても気に入っていたから。庭院にわに止まっていた小鳥たちから聞いた話を伝えれば、きっと喜んでもらえる。それだけだった。

 それだけだったのに――――――――


 どうして鳥や獣と話すことは悪いことなのだろうか。鳥や獣と友達になることは、とても素敵なことなのに。どうして父や母、祖父母にあれほど叱られ、そのたびに謝られなければならなかったのだろう。


 どれほど考えても答えは出てこない。そのうちに少年は考えるのをやめた。


 彼はここへ来るまでずっと走ったり歩いたりし続けていたし、邸を出てから一口も食べ物を口にしていなかった。水も飲んでいない。他の場所へ歩く体力も気力も、もはやなかった。


 雨はまだ降り続けている。雨が降る前にこの庇の下に入れたから服は濡れていないが、それでも寒くて体を丸める。


 そのとき、雨音に紛れてばしゃばしゃと水音がした。誰かが歩いてくる音。少年はびくりと体を竦ませる。


〈おや、これは珍しいものだ。こんなところに人間の子供がいる〉


 闇から現れたのは猫だった。全体は白くて長い毛並みだが、尻尾の先や足元、顔は黒に近いこげ茶をしている。青い瞳がとても綺麗だった。

 確か西域の向こうにあるという、大斗だいと国の辺りの猫だ。何かの書物で見たことがある。

 彼は果物をくわえていた。どこからかくすねてきたのだろうか。


「ここに人間の子供がいるのは珍しいことなの?」


 すると猫は物珍しげに少年を見た。


〈君は私の言葉がわかるのか?〉

「うん」

〈ふむふむ。ということは君は、今朝からずっとどこかの貴族が探している、妖魔憑きの子供とやらだね。噂ならずっと前から聞いているよ。私たちの言葉を理解する、きわめて貴重な存在だとね〉

「僕、探されてるの?」


 彼が尋ねると、ああ、と猫は答えた。


〈とは言っても、あまりやる気はなさそうだったがね。大方、子供が行方不明になったのに探さないのは風聞が悪いから、探しているふりをしているだけだろう。君は家族に嫌われていると聞いているし……あの様子だと、あと十日もすれば捜索を打ち切るだろうね〉


 なんでもないように猫は言うが、彼の言葉は少年の心に突き刺さった。


 少年が邸を出たのは、両親に殺されると知ったからだ。あの雌犬が少年に嘘なんてつくはずがない。今まで一度だって嘘をついたことはなかった。だから怖くなって逃げ出した。殺されたくなかった。


 けれど心のどこかでは、両親のことをそれでも信じていたのだ。そんなの嘘だ、自分を殺すはずないと。きっといなくなった自分のことを探してくれると、あんなに嫌われていたのに、それでも。


 でも、それは夢に過ぎなかった。

 やはり自分は要らない子供だったのだ。


 全身から力を抜けた。目の前が真っ暗になったような気がする。頭の中がぐらぐらして今にも凍えてしまいそうだ。

 これ以上何も考えたくなくて、力のない声でさらに問う。


「猫さん、その果物はどこで手に入れたの?」

〈これは、この通りから二本向こうの通りにある店からとってきたものだよ。だが君があそこで果物を手に入れることは難しいだろうね。あそこはとても警備が厳しい店だから。でも君は我々の言葉を理解してくれる貴重な存在で、ちょうど今お腹が空いているようだ。それに免じてこれをあげよう〉


 と、なんと猫はくわえていた果物を、少年の手に落としてくれた。

 さすがに彼は目を丸くした。


「くれるの?」

〈構わないよ。またとってこればいい話だからね〉


 そこではじめて少年は微笑んだ。


「ありがとう」


 どういたしましてと猫は言うと、少年に背を向けかけ、半分だけこちらを向ける。


〈親切ついでにもうひとつ教えてあげよう。この道を少し歩いたとこにある十字路の右手前の角は、空き家だ。何もないころだが毛布があるし、雨露くらいなら凌ぐことができるだろう。――ただし、非常に危険だがね〉

「危険? どうして?」

〈危険な人間がやってくるからだよ。それに君は外での暮らし方を知らない子供で、非力だ。心がけのよくない人間に捕まって、殺されたり、どこかへ売り飛ばされてしまう可能性は高い。だから危険なのだよ〉


 猫のあっさりとした物言いに少年は顔を青くした。そんな危険なところでどうやって寝ろと言うのだ。


〈町の子供として一人で暮らしていくのもいいだろうけど、私としては、泣き落とすなり何なりで大人に保護してもらうことをお勧めするよ。人間の子供は本当に非力だからね。心がけのよくない大人から身を守るためにも、気のいい大人を利用するのは有効な手段だ。そのときは大人の性質をよく見極めることだね――――そういえば、人間にはそれぞれ名前があるそうだね。君は何という名前だ〉


 名前。尋ねられて、彼は目をゆっくりと瞬かせた。母と邸にいる獣たち以外の誰かに名を尋ねられたのは、一体いつ以来のことだろう。


「……白、雷禅」


〈はくらいぜん……か。では雷禅、頑張りたまえ〉


 そう言うと、猫はまた雨の中を去っていった。


 猫がくれた果実を食べてしまってから、少年――雷禅は猫が言っていた空き家を目指した。行くのは怖かったが、ここで眠るわけにもいかない。怖い人がいるとは限らないし、この寒いのから抜けだせるならと、それだけを考えて歩いた。


 無事にたどり着いた空き家はとても小さな、今にも壊れそうな家だった。白家邸の雷禅の室と同じくらいの広さしかない。しかも明かりはまったくなく、他の店や家の明かりでかろうじて中がわかるといった程度だ。それにとても不潔な匂いがする。正直中に入りたくなかった。


 しかし背に腹は代えられない。雷禅は意を決して中に入ると、わずかな明かりを頼りに毛布を探しだした。明かりが届かない暗がりで毛布にくるまる。雷禅の知る毛布とは比べものにならない薄さだ。最初のうちこそ寒かったが、次第に体が温まってきた。


 体の芯から温まっていくのを感じ、雷禅はほうと息をついた。それを合図とするように、雷禅の思考はゆるりゆるりと鈍くなっていく。


 明日のことは起きてから考えよう――――


 降りしきる雨音を子守唄に、雷禅はやがて眠りに就いた。

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