翡翠の腕釧

翡翠の腕釧・一

 室内を整理していたそう雷禅らいぜんは、机の引き出しの奥に見える灰白色の紐を見て目を瞬かせた。


 先代西域府君の悪政によって離れていた彗華すいかに戻り、商人見習いとして仕事をするようになってから、雷禅は慌ただしい日々を送っていた。基本的には備品の買いつけや帳簿付けなどの雑用ばかりなのだが、義父の商人仲間や都護府の高官が催す会食などに出席することもたまにある。隊商に混じって西域辺境のあちこちを放浪していた頃とは似て非なる日々には、正直言ってまだ慣れない。


 そうして改めて自室を見渡してみると、いつの間にか机のあたりだけがやたらと散らかっていた。借りた書物やら自分の服やら何やらが、適当に置かれている。整理整頓は普段から心がけているのだが、色々と調べものをすることになり、時間がなくてそのままにしていたのだ。それに加えて夕べは予想外の騒動に巻き込まれて疲れ果て、さっさと寝ることしか考えなかった。だからだろう。


 今日は丸一日休みをもらったことであるし、ちょうどいい機会だ。雷禅は久しぶりに室の整理をしようと思いたった。


 そして引き出しを開けて、件の紐を見つけたのだ。


 紐をつまんで引っ張ると、巾着が出てきた。柔らかな橙色の布地、二羽の鳳凰が向かい合い、牡丹が咲き綻び、花弁が舞い散る刺繍がなされた、一目で上流階級の人間が使うものだとわかる。


 中に、円形の何かが入っている。

 雷禅は思わず息を呑んだ。


 巾着の中身は見ずとも知っている。女性用の細い腕釧うでわだ。透明感のある青竹色が全体に広がり、てらりと光を返して美しい。山間の大国、みんでしか産出されない最高級の翡翠をくりぬいたそれは、その大きさにもかかわらず、邸が一つ建つくらいの値打ちがある。


 貴人かよほどの金持ちにしか買えない値打ちを持つ翡翠の腕釧は、当然ながら雷禅のものではない。元々はある貴婦人の腕を飾っていたのだが譲り受け、お守りとして巾着の中に入れていたのだ。


 義父に引き取られる以前からの唯一の持ち物だったそれを、雷禅はこの引き出しの奥にしまったままにしていた。この引き出しを開けることはあっても、手前に置いたものしか出し入れしないし、取り出すことは一度としてなかった。ここ数年にいたっては、思い出しすらしていなかったような気がする。今日引き出しの奥に目を留めなければ、いつ発見していたことやら。整理を思いたって本当によかったと心から思う。


 巾着の中から取り出してみると、腕釧は記憶の中のものと寸分も違わぬ色をしている。埃ひとつ傷ひとつついていない。一度も出さず、巾着と引き出しで二重に保存していたから当然だろう。

 とはいえ、それでも十年以上もほったらかしにしていたのだから、昔と変わらない姿には感慨深いものがあった。


 幼かった頃の記憶が色鮮やかに脳裏によみがえり、雷禅は目を細めた。


「もう、十年経つんですね…………」


 当代の貴妃を輩出した大貴族の長男だった自分が家を飛び出してから――――今の自分より少し年上の青年に拾われてから。

 それだけの時間が流れたのだ。

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