企みは成功

 西域からの文を読んでいたそう璃珀りはくは、差し込む日差しの色に気づき、ふと空を見上げた。

 眩いばかりの夕陽が、空も雲も橙色に染め上げていた。庭院にわに落ちる陰影は強く、青ざめた影の中にうっすらと亭や彫刻が浮かびあがる。


「おーい異母兄上あにうえー、入っていいかー?」


 美しい風景に見惚れていると、聞き慣れた声が背後からかかった。苦笑しつつ許可すると、異母弟の瓊洵けいじゅんと妻の霞彩かさいが入ってくる。

 異母弟の両手には黒漆の文箱、妻は茶を運んできていた。それぞれ机に置いてくれる。

 文箱を一瞥し、璃珀はため息をついた。


雷禅らいぜんへの縁談か」

「そうそう。なんでか知らねーけど、俺んとこに押し付けてきたんだよ。異母兄上に持っていったら断られると踏んだのかね。やーもう凄い凄い。琥琅ころうのほうにはだぁれもこなくなったっていうのに、雷禅のほうはどっさりだ」


 そう異母弟はからからと笑う。まあそうだろうな、と璃珀は苦笑した。


 何しろ、琥琅――瓊洵の養女は、隊商に同行していた頃から周囲を仰天させ、振り回し続けているのだ。璃珀が聞いただけでも、馬たちを怯えさせたり、瓊洵に次ぐ武芸で他の護衛たちを圧倒したり、手掴みで食事しようとしたりと、枚挙にいとまがない。綜家の邸で暮らすようになってからも、他者との交流をできる限り避け、ごく限られた人間としか話そうとしない。そんなものだから使用人たちも、邸の主人の義姪めいにはあまり近づかないようにしていた。


 こんな野生の虎が如き振る舞いが噂にならないはずもなく、綜家は雌の人虎を飼いはじめた――――という噂が今、彗華すいか中でまことしやかに流れている。だというのに、縁談を寄こしてくるほうがおかしい。寄こすとすれば、綜家の名だけを見ているか、噂を軽く考えている家だけだろう。


 まったく、と腰に手を当て、瓊洵は呆れの息をついた。視線を文箱へと落とす。


「どいつもこいつも、気の早い奴らばっかだよなあ。雷禅は彗華に戻ってきたばっかだし、商人としてはまだまだひよっこだし……そんなに綜家との繋がりが欲しいもんかね」

「欲しいから縁談を寄こしてくるんだろう。迷惑な話だ」


 断りの文を書く身になってくれ。璃珀はぼやいた。


 縁談のことについて、璃珀は一応、雷禅にも話を通している。しかし雷禅はどんな良縁も、半人前の身では分不相応であり、考えている余裕がないとして断っていた。実際、雷禅は綜家の跡取りとして積極的に仕事をこなし、学ぼうとしていたし、璃珀もそのつもりで仕事を与えている。彼が縁談について真剣に考えるのは、当分先だろう。

 ――――もしかすると、一生ないかもしれないが。


「……そういえば、あの二人はそろそろ帰ってくる頃か」


 空へ目を向け、璃珀はふと呟いた。


 雷禅と琥琅は、今朝から山へ逢瀬に行っている。修安老師に星天石の洞窟のことを教えてもらったらしく、見に行ったのだ。つまりは逢瀬である。雷禅が休みを申し出たときは微笑ましくて、甘いと思いつつも璃珀はつい了承してしまったのだった。

 夜には戻ってくると言っていたから、そろそろ帰ろうとしている頃合いだろう。だが光りものが好きな琥琅のことだ、きっと駄々をこねて、雷禅を困らせているに違いない。


 そう思っていると、妻はほほほと笑って口元に袂を当てた。


「きっと、二人が帰ってくるのは明日になりますわ」


 いやにきっぱりと霞彩が言いきったからだろう、瓊洵はくつくつと喉を震わせた。


義姉上あねうえ、また何かやったんですか」

「あら、何かだなんて。私は琥琅に、『耳元でもう少し雷と一緒にいたいって言ったら、絶対明日まで一緒にいてくれるわ』って言って、一つだけじゃ足りないかもしれないから、お弁当を二つ余計に持たせただけよ?」


 首を傾け、霞彩は可愛らしく言ってみせる。

 どこが何もしてないだ。どう聞いても、二人に朝帰りさせるための小細工にしか思えない。


 璃珀が呆れ果てる一方で、瓊洵はげらげら笑った。


「じゃー今晩帰ってこないなあいつら。雷禅が琥琅のお願い聞かないわけねえし。やー、義姉上はいつもいい手を思いつきますねえ」

「私は本当のことを言っただけよ?」


 と、あくまでもそらとぼける霞彩である。璃珀は額を指で押さえるしかなかった。


 霞彩が大変賢い女性なのは出逢った頃から知っているが、最近雷禅に対して、間違った知恵の使い方をしているような気がする。彼女の父君は茶以外のことでは温厚な好人物であったはずなのだが、この悪戯癖は一体どこからきたのやら。璃珀は近頃、貞淑な妻の意外な一面を発見しつつあった。


 雷禅と琥琅の関係が一晩でどうにかなるなんて、璃珀は欠片も思っていない。奥手な雷禅がそう簡単に想いを告げられるわけがないし、琥琅が彼の気持ちに気づくこともまずありえない。そもそも、恋愛という厄介な幸福の存在を理解しているかどうかすら疑わしい娘だ。――――だからこそ、この二人も気楽にあの二人で遊ぶのだろうが。


 据え膳を目の前に置かれてお預けにされた心境だろう義息子むすこに、璃珀は心から同情した。

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