星満ちる洞・四

 幾度目かの沈黙が下りたとき、琥琅ころうがふと呟いた。


「……久しぶり、たくさん話すの」

「そうですね。彗華すいかに戻ってからは、顔を合わすこと自体あまりありませんでしたもんね。隊商にいた頃は、なんだかんだ言って話す機会がありましたけど」

「ん」


 こくりと琥琅は頷く。

 不意に、琥琅が雷禅らいぜんの肩にもたれてきた。腕に腕が絡まり、柔らかなものを押しつけられ、雷禅の鼓動は跳ねる。息を飲むどころか、顔が真っ赤になった。


「こ、琥琅?」

「…………雷、仕事、楽しい?」

「……は?」


 唐突な質問に、雷禅は目を瞬かせた。それからすぐ、ええ、とどうにか答えた。


「上手くいかなかったり怒られたりしてへこむこともありますけどね。やりがいがありますし、何より義父上の力になれますから」


 雷禅は義父を尊敬している。異能ゆえに両親に疎んじられて邸を飛びだし、浮浪児になっていた自分を家族として迎えてくれた人だ。それだけでなく、そばにあればあるほど、目の当たりにする彼の優しい人柄や飛び抜けた能力に憧れは募った。彼の力となること、いずれ彼と並び立つ大商人になることが雷禅の幼い頃からの望みであり、夢だった。


 でもどうしてそんなことを訊くのだろう。そう思ったが何となしに思い当たり、思いついたままに雷禅は問うてみた。


「琥琅。もしかして、寂しかったんですか?」

「……」


 無言だったが、ややあって琥琅はこくんと頷いた。


「……雷、あまり話せなくなって、寂しかった。勉強、少し楽しい。鳳首箜篌たてごと弾くのも。けど、雷に会えないの、寂しい。――だから今日、雷と一緒、嬉しい」


 そして琥琅は、雷禅の腕に絡める自分の腕の力を少しだけ強くした。柔らかな感触の奥の、琥琅の鼓動が直接雷禅の肌を打つ。


「っ……!」


 雷禅の思考は真っ白になった。即刻この腕を振り払い、琥琅から逃げだしたい衝動に駆られた。

 だが琥琅は雷禅の腕に抱きついたまま、雷禅の体温を噛み締めるように目を閉じている。あんなに夢中になっていた幻想的な景色に、もうわずかな関心も寄せていないのだろうか。――――こんな顔を見て、振りほどけるわけがない。


 布地越しに感じる琥琅の鼓動は、まったくもって平静そのものだ。雷禅は、それが悔しかった。


 琥琅へ向けた感情に気づいてからも、雷禅はそれまでと変わらない態度で彼女に接し続けていた。今の琥琅に慕情を告げたところで、理解してくれるとは思えないからだ。彼女から向けられている絶対の思慕が恋愛感情ではないことは、これが初恋の雷禅でも理解できている。


 自分を振り回すこの虎娘を見返してやりたいという思いはある。だが一方で、絶大な信頼を裏切ることも雷禅にはできない。雷禅のそばにいられるならと、彼女が受け入れてくれるとしてもだ。荒々しい純粋さに背を向けるような真似は、己の矜持が許さない。


 だから今はまだ、この想いを伝えまいと雷禅は心に決めていた。彼女はまだ精神が身体に追いついていないし、自分も今すぐ琥琅と夫婦になるのには戸惑いがある。好きなのだけど、だから今すぐその先へ進みたいという気持ちはまだない。

 結局、自分たちはまだ子供なのだ。だから結論は後回しにしておこうと、そう思っていた。


 なのに琥琅は言うのだ。寂しかったと。そばにいられて嬉しいと。


 ずるい、と思う。雷禅をこうも容易く舞い上がらせておきながら、どうして肝心な言葉はくれないのか。鼓動は平静なままなのか。自分ばかりが振り回されて、馬鹿みたいだ。


 雷禅は苦笑いするしかなかった。


「……貴方はいつまで子供なんでしょうね」

「俺、もう大人。雷、子供」


 無表情に見上げてくる想い人に、雷禅は失笑した。だから子供だというのだ。何もわかっていない。


「そりゃ義父上たちから見れば、僕はまだまだ子供でしょうけどね。でもそれは琥琅だって同じですよ? それに、僕は琥琅みたいに構って構って~って誰かに泣きついたりしません」

「……」


 琥琅は口をへの字に曲げた。ぐる、と小さく唸る。自覚はあるらしい。


「ほら、その癖。まだ治らないんですか?」

「……」


 くすりと笑えばさらにむくれて顔をそむけてしまった。ますます幼い子供のような仕草と表情に笑みが深まる。


 機嫌が悪くなると唸るのは琥琅の癖だ。拾ったばかりの頃は、警戒心から誰彼構わず唸ってばかりだったが、少し落ち着いてくると今度は無口になり、その代わり、言いたいことが言えないときにぐるぐる唸るようになった。それか、唇をきつく噛んで相手を睨みつけるか。これも、雷禅が己の趣味を嘆く理由の一つだ。


「雷、意地悪」

「僕のどこが意地悪ですか。僕ほどお人好しな人はいませんよ」

「嘘つき」

「そりゃ冗談ですから」


 半分くらいは、と心の中で付け足す。こんな手のかかりすぎる野性児の世話なんて、お人好しでなきゃやってられない。


 不思議だと思う。あんなに嫌々世話をしていた人を今、自分は好いている。気持ちがそういう方向へ向くような、何か大きな事件が起きたわけではないのに。いつの間にか好きになっていた。


 雷禅は琥琅の頬についと手を伸ばした。緊張するけれど、不意にそうしたくなった。


 そういえば以前、肌がこんなにすべすべなのだから化粧ののりは絶対いいのにと義母がこぼしていた。ねだって無理やり女装させた際、化粧をしようとしたら全身で拒否されたらしい。琥琅は鼻がよく利くからか、粉っぽくて濃い匂いのする化粧が大嫌いなのだそうだ。ちなみに酒も同様である。


 琥琅の頬は義母が言っていた通り、本当に肌触りがいい。きめ細かですべすべしていて、指に吸いつくような柔い感触がする。腹立ち紛れに彼女の頬をつねったことなんて何度もあったのに、今まで気づかなかった。


 琥琅がきょとんとした顔をし、それから雷禅をじとりとねめつけた。


「抱きつくな言うのに」

「抱きつくのとほっぺた触るのとじゃ大違いでしょうが。子供じゃないって言うんなら、いい加減その人に抱きつく癖はやめなさい」

「だって雷、あったかい」

「寒いなら綿入れにくるまるなり、あったかいとこに行くなりすればいいでしょうが。大体貴方は、夏でも抱きつきにきたでしょう。むしろ暑苦しいんですよあれは」


 反論すれば、琥琅はまた不満そうにぐるぐる唸る。が、こればかりは雷禅も譲れないのだ。抱きつかれるたびにどうにかなってしまいそうになる、こっちの心の臓のことを考えてほしい。

 いつものことながら、早く大人になってほしいと雷禅は心から願った。


 日はゆっくりと落ちていく。天井にぽっかり空いた穴から見える空はやがて茜色に染まりはじめ、雲までもが夕日と空の色に混じり、空を彩る。

 雷禅は隣の琥琅を振り返った。


「琥琅、そろそろ帰りましょうか。もうすぐ帰らないと、夕餉が遅くなってしまいますよ」

「ん……」

「琥琅」

「……まだいる」


 嫌な予感がすれば、案の定琥琅はぐずった。――義母の妙な入れ知恵が、雷禅の脳裏をよぎった。


「でも琥琅、夕餉になるようなものは何もないですよ。布団だって……」


 遠まわしに説得を試みた雷禅だが、琥琅がごそごそと鞄から取り出したものを見て絶句した。

 昼間のものとは違う意匠の、小さな弁当箱。しかも二人分。


「霞彩様くれた。ここ、あんまり風が入ってこない。一緒ならきっと寒くない」


 と、琥琅は無表情なようでいて、その実期待に満ちた目を向けてくる。

 雷禅は頭を抱えたくなった。


 どうして義母はこうも人で遊びたがるのだろう。今朝の発言といい、どう考えても義母は義息子に朝帰りをさせるために、琥琅にあれこれ吹き込んでいたとしか思えない。この分だと間違いなく、義父たちへの根回しも済んでいる。


 この展開が嬉しくないわけではないが、義母の手の内にあるというのは何だか気に食わない。しかも、邸へ帰れば義母や義叔父にからかわれるのはわかりきっている。

 とはいえ、拒絶する理由をことごとく消されてしまった今、無理やり帰るのは自分の性格からして困難だ。琥琅がしゅんとなるのは心が痛む。


 数拍考えて、雷禅は抵抗をやめた。こんな勝てる見込みのない勝負なんて、するものではない。

 それでも素直に頷くのは癪なので、わざとため息をついた。


「……仕方ないですね。少しだけですよ」


 そうは言いつつも、内心では野宿は決定事項だった。今宵の月はあまり太くなく、しかもここへ来る道のりは高低差が激しい道だった。そして西域辺境の夕暮れはあっという間に終わり、夜がやってくるのだ。明かりがあるとはいえ、月光を頼りにできない夜の山をのこのこ歩くほど雷禅は愚かではない。


 すべては義母の意のまま。それでも、琥琅の笑顔が見れてよかったと思ったりするのだから、まったく自分は救いようのない阿呆だとしか言いようがない。

 その結論に辿り着いて、雷禅は物凄い疲労感に襲われた。



 翌日、朝帰りした雷禅が義母と義叔父にからかわれたのは、言うまでもない。

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