星満ちる洞・三

 雷禅らいぜんは現在、非常に困っていた。


 甘麗かんれい遼寧りょうねいに一刻ほど走ってもらうと、西域辺境の乾いた大地を潤す水を生みだす華綾かりょう山脈の一角、祁環きかん山に着いた。乾いた色の大地に溶け込む色が所々で覗く山。乾いた緑が眩しい。


 彗華すいかからさして遠くない位置にあるこの山は、彗華に住まう者たちにとっての良き行楽地だ。中原の緑とは比べるべくもない褪せた緑だが、それでも乾燥地帯の中にあって、華綾山脈の緑は宝石のようなものなのだ。都護府軍が時折見回りに来ているため賊の横行も少なく、貴族などの富裕階級のみならず、庶民も安心して訪れることができる。かつて禿げ山だった華綾山脈を緑地化した神獣伝承を記した碑があるので、わざわざ遠くからやってくる物好きな旅人もいる。今は先代西域府君が更迭された直後だから人気はまったくないが、いつか必ず、かつての観光名所としての賑わいを取り戻すことだろう。


 そんなさびれた観光名所の片隅、地元民でもほとんど知らない道を辿ったところにある洞窟へ、雷禅と琥琅ころうは足を踏み入れた。


 洞窟の中は、修安しゅうあん老師が言っていたとおり、美しかった。教えられていたとおり、最初の分かれ道で灯りを消すと、真の暗闇となるかと思われた道は一瞬にして、色とりどりの光が灯る幻想的な世界へ変わった。右を向いても左を向いても、上を見ても下を見ても、淡い光が視界に無限とばかり灯っているのだ。その中を歩いていると、何だか洞窟の中ではなく、星空の中を歩いているような気にさせられる。


 この光を放っているのは、星天石と呼ばれる鉱石だ。名のとおり、闇の中で蒼い星が瞬くような光を放つ。蛍光塗料の原料や装身具などとして重宝されているが、西域辺境以西の山でしか産出されないので、かなりの高値で取引されている。

 その星天石が、まるで星空を飾る星のように数多埋まり、半ば露出していた。この光を全部合わせたら一体どれだけの金額になるのか。考えるだに恐ろしい。


 こんな幻想的な、二重の意味で万金にも値する景色を前にして、考えることはきわめて世俗的というか下世話だ。頭の中で本当に計算しかけたあたり、商人の子だと自分でも思う。


 でもそんなことを考えていたいくらい、雷禅は現在の状況から、ある意味では逃げ出したかった。


 星天石の淡い光に照らされた白いうなじ、細い背中。斜め後ろからわずかに胸のふくらみが見え、その手前に丸みを帯びた細い肩がある。そして自分と繋がる細い手。それらはきらめく景色にすっかり上機嫌の人のせいで、適度よりやや小刻みかつ大きく揺れている。

 男装していても、いやだからこそか、姿勢の良い精緻な体の線は露わだ。一流の芸術家の手になる彫刻もあるいは及ばない、完璧な造形。あんな気性でなければ、と女使用人たちが呆れも羨みもしているのを聞いたことがある。


 星天石の光に淡く浮かび上がって揺れている琥琅の姿から視線を外したくても外せず、雷禅は頬が熱くなるのを感じた。


 一体いつからだろうか。この人に寄せる想いに気づいたのは。出逢ったのは一年足らず前で、今以上に人間を警戒し、人間に化けた猛虎そのものだった彼女に手を焼かされ、己の名の通り雷を落としたことは数えきれない。せいぜい、手のかかりすぎる歳の離れた兄弟くらいの認識でしかなかった。ましてや彼女を恋い慕うようになるだなんて、それこそ光水の水が枯れるようなものだとばかり思っていた。


 ――――――――なのに、今はこれだ。何でもないように装っていても、意識は偽りの星空よりも、淡く浮かび上がる琥琅の肢体と、繋いだ剣胼胝だらけの手にばかり向いている。己の趣味の悪さに、ただ呆れるしかない。


 歩む先が急に明るくなった。透きとおった、厳かで鮮やかな青の光。

 星天石だろうか。だがそれにしては、これまでは違う感じがする光だと、雷禅は疑問に思った。


 答えはすぐに訪れた。


「湖……!?」

「みたい、ですね。それに天井は吹き抜けで、本物の空ですよ」


 そう答えつつも、雷禅は目の前の光景に心を奪われていた。


 雷禅たちがいる場所の眼下、広大な空間の中央に、大きな青い穴――湖があった。ほぼ正円といっていい形で、その真上にもぽっかりと開いた穴があり、そこから青空が覗いている。周囲や足元には星天石の光。

 どうやら青い光は、湖水の異常な青さのためらしい。星天石や天空から降る陽光を受け、照り返していたのだ。けれどこの空間は広く、星天石の光も湖の照り返す光の柱の輝きも、奥までは届かない。だから星天石の光は完全には消されず、この幻想的な空間に存在していられるのだ。


 こんな場所があるのが信じられなかった。畏れさえ感じるほどに美しい。

 だから、琥琅の手が離れたことにもしばらく気付かなかった。


 神の手によるものに違いない景色にうっとりと見惚れていると、足音や石が転げ落ちる音がしているのに気付いて、雷禅ははっと辺りを見渡した。琥琅が崖から降りて、湖へ向かっているのを発見する。


「あ、琥琅! 危ないですよ」

「平気」


 雷禅が止めても、琥琅はまるで聞きやしない。雷禅は慌てて自分も崖から降りた。暗いと言えば暗いが、光源はそこら中にあるので何も見えないというわけではない。降りるにしても足場がいくつもあって、下に行くのは割合簡単そうだ。


 琥琅は靴を脱ぎ捨てて、湖の中へばしゃばしゃと駆けだしていた。あまり深くないようで、袴の裾を上げ、水の感触を楽しむように、ゆっくりと足を動かしたり手で水を掬ったりして遊んでいる。


「琥琅、遊ぶのは構いませんけど、服は濡らさないでくださいね。着替えなんて持ってきてないんですから」

「わかってる」


 念のために注意してみれば、答える琥琅の声はほんの少しだけ弾んでいた。表情もわずかに明るく、眼はきらきらとして喜びに輝いている。偶然見つけた玩具に夢中の幼い子供か、禊をする女神のようだ。


 無邪気に喜んでいる琥琅を見て、雷禅は思わず口元をほころばせた。荷物を下ろして湖畔に腰を下ろし、水に戯れる琥琅を見つめる。幸福がひたりひたりと全身を満たしていくのを感じ、うっとりと目を細めた。


 ふと雷禅が足元を見下ろすと、やはり湖の水は尋常ではない蒼さだった。目が覚めるようなその色は、掬っても掌の中でうっすらと見える。

 何故、この湖の水がこんな青く透明なのか。考えられる可能性としては、土の具合だろう。西域辺境の南、険峻な山々に囲まれ温暖な気候と緑に恵まれた成州のとある山奥には、翡翠や瑠璃などの色をした水を湛えた百八の湖沼があると聞く。伝説によれば、言い寄ってくる魔物に辟易した精霊の涙が溜まったものだというが、一方で、土が水の色を変える成分を含んでいるからという、身も蓋もない説を説く学者もいる。これほどの星天石が埋まっていたわけだし、もしかしたらこの水の色も、何か特殊な成分を含んだ土によるものなのかもしれない。


 そんなことを雷禅が考えていると、ひとしきり遊んで満足したのか、琥琅がばしゃばしゃと水音をたてて戻ってきた。袴を膝近くまで捲り上げて足を伸ばして水につけ、雷禅の隣に座る。

 その、形の良い胸と、白くきめ細かな肌のふくらはぎ。

 水を弾いて煌めく肌の白さにどきりとして、雷禅は慌てて琥琅の両脚から目をそらした。長年の山中生活によっていくつもの傷があるが、それでも女人の脚だ。


 もうほとんど諦めてはいるが、できるならもう少し慎みというものを知ってほしいと、雷禅は幾度目か知れない願いを胸の中で呟いた。この野性児は年頃だというのに、異性の前で裸になることさえ躊躇わないのだ。

 遠い目をしそうになった雷禅は、無理やり話題を琥琅に振ることで、儚い希望から目を逸らすことにした。


「琥琅。ここが気に入りましたか?」

「ん」


 雷禅が問うと、琥琅は無表情ながら嬉しそうにこくんと頷いた。ここまで琥琅が浮かれるのは珍しい。というか初めてである。光りもの好きだからだろうか。


「雷、体大丈夫?」

「え?ああ、大丈夫ですよ。元々熱なんてありませんし。琥琅の方こそ、歩きずくめで疲れたんじゃないですか」

「平気」


 琥琅はゆるゆると首を振った。

 それからしばらく、二人は色々な話をした。会わない間に何があったか。琥琅は相変わらず修行と勉学の日々だったようだ。だから自然と、雷禅ばかりが話すようになる。

 とは言っても、雷禅が琥琅と離れている間にしていたのは、琥琅の興味を引くようなことではなかった。帳簿をつけたり品物の納入をしたりといったものばかりで、たまに義父について取引を見学したり、異民族の交易商と会談したり、豪商や貴族と会食したりしたくらいだ。ただでさえ人間の暮らしに彼女は関心を持っていないのに、聞く気になるはずもない。


 だから雷禅は、店先や出張先で見かけた珍しい品や出来事、変わった話を記憶から引っ張り出して話してやることにした。つい半月前にも、成州の州都から来たという高名な雑技団の美技や異民族の武器、異国の珍獣を見たり、彼らから様々な話を聞いてきたところだ。特に、足や目の周りが黒い、熊に似た珍獣、熊猫の話などは、琥琅の興味を大いに引いた。熊の仲間なのに竹しか食べないのは何故だろうと、しきりに不思議がった。


 話の種が尽きても、沈黙は決して息苦しいものではなかった。話すことがないから話さないというだけの、緊張も退屈もない沈黙だ。何か話さなければという焦りも浮かんでこない。思いつけばまた軽く言葉を交わし、黙る。それだけだったが、雷禅はとても満ち足りた心境だった。

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