星満ちる洞・二

 いつもよりずっと早く鍛錬が終わった朝。そう家の邸の庭院にわの、いつも雷禅らいぜんに勉強を見てもらっている亭で、琥琅は雷禅を待っていた。

 今日も空はよく晴れ、濃い色の青が雲に遮られることなく、一面に広がっている。風も弱く、あずまやの窓を閉めるほどではない。その代わりに日差しはきついものの、絶好の観光日和と言える。

 しかし、琥琅がやってきてそろそろ四半刻が経とうとしているが、雷禅はまだ来ない。何でも、昨日買い付けた備品に不備があったそうで、その対処に追われているらしい。しばらく待っていてほしいと、天華てんかが先ほど雷禅からの伝言を伝えてくれた。

 彗華すいかに帰ってきて以来、雷禅は仕事ばかりしている。食事のとき以外、顔を合わさない日だってあるくらいだ。隊商にいたときは、仕事で忙しいときはあっても毎日構ってくれたのに。琥琅は、それが不満でならない。

 最近巷で流行っているという異国の砂糖菓子を琥琅が食べている間も、時間は静かに過ぎていく。その間、琥琅の胸中は落ち着かないままだった。離れた場所からかすかに漂う、通りすぎていく人間の気配が気になってしまう。それが少しでも強いものだと、腰に提げた愛剣に知らず手が伸びる。

 あんな弱い人間たちの動きが気になるなんて、山脈を統べた人虎の養い子がなんと情けないことか。琥琅は己の弱さを嘆いた。でも駄目なのだ。雷禅たちに拾われてからずっと、絶えず人間の集団と行動を共にしていたのに、まだ人間の暮らしに慣れない。琥琅にとって、人間は未だ異種族であり、その社会は自分の居場所ではない。雷禅や天華がそばにいて、かろうじて居場所があると認識できるのだ。

 でも今、雷禅はいない。天華もどこかへ行ってしまった。――――琥琅は一人だ。

 たまらず椅子から立ち上がり、琥琅は亭の床にぺたりと座り込んだ。愛剣をぎゅっと胸に抱え、鞘の冷たさを頬に味わう。それにだけ意識を集中させ、周囲の気配を考えないようにする。

 早く、早く。早く来い―――――――― 

 そう強く願って、どのくらい経ったのか。焦がれてやまない気配を、閉ざしていた琥琅の意識は感知した。

 敵を見つけたような素早さで、琥琅は立ち上がった。廊下から走ってくる人の姿を見つけ、雷禅のもとへ駆ける。

「雷」

「すみません琥琅。遅くなりました」

「雷、遅い」

 平謝りの雷禅に返す言葉は、自然となじるものになった。手が伸び、雷禅の服の袖を掴んで不満を伝えると同時に安堵をむさぼる。

 そんな琥琅の心情を理解したのか、雷禅は苦笑した。

「すみません、色々と手違いがあって、準備が遅れてしまったんです。もう問題は解決しましたから、機嫌を直してください」

 と、雷禅は琥琅の頭を撫でた。こうすれば琥琅の機嫌が良くなることを、彼は知っているのだ。隊商にいたときも、こうして何度、雷禅に宥められたことか。

 頭を撫でられ、琥琅のまだ残っていた不安はたちまち失せた。雷禅がそばにいる実感が、琥琅の胸に広がっていく。

「……行ける?」

「はい。甘麗たちを待たせていますし、早く行きましょう」

 琥琅の頭を撫でていた手を頬に下ろし、雷禅は琥琅を促す。琥琅はこくりと素直に頷いた。

 そうして二人が厩へ足を向けると、馬たちのざわめきが二人を迎えた。人虎の養女である琥琅の猛々しい気配が本能を刺激するらしく、琥琅がここへ来るたびに彼らの多くは震えあがるのだ。草食動物だから、仕方ない。

 雷禅は困った顔をした。

「皆さん、そんなに怯えないでください。琥琅は貴方たちを傷つけたりしませんよ」

〈そうは言っても坊ちゃん、やっぱり駄目ですよ。恐いですもん〉

〈そうですよ。その人、普通じゃないですって〉

〈俺たちはか弱い普通の馬なんだよー!〉

 雷禅が宥めても、馬たちはめいめいに恐怖を訴えてきてやかましいことこの上ない。まったく、こんなにうるさくしていれば、さすがの琥琅も剣の柄に手が伸びそうになるというのに。琥琅の不穏な気配を察知した馬たちが一層騒ぐから、尚更だ。

 仕方ないですね、と雷禅は長い息をついた。

「すみません、琥琅。少し離れて待っててください。甘麗かんれい遼寧りょうねいにでも頼んできますから」

「ん」

 申し訳なさそうな顔をする雷禅だが、そうするしかないだろう。琥琅は頷き、厩から離れた。

 ほどなくして、雷禅は鹿毛の年嵩の雌馬と黒毛の若い牡馬を連れてきた。雌馬は甘麗、牡馬は遼寧。どちらも綜家が飼っている馬の中では珍しく、琥琅に怯えない性質を有する元軍馬だ。

 しかし琥琅は、交通手段を確保してほっとするより、雷禅の様子が気になった。

 何故か、頬がほんのりと赤い。先ほどまではなんともなかったのに。

「……?」

 急に心配になって、琥琅は断りもせず、雷禅の額に手を当てた。生きている生命の温もりが、琥琅の手のひらに伝わってくる。

 雷禅は、目に見えてうろたえた。

「なっ何ですかいきなり!」

「雷、顔赤い。熱かも」

「~~っ熱なんてありませんっ大丈夫ですっ」

 ぱっと、手を振り払うように雷禅は顔を背けた。慌てたような、驚いたような目。

 その瞬間、琥琅は何故か胸に痛みを覚えた。悲しみや腹立たしさ、苦しさが混じりあって胸に一滴、滴り落ちる。

 それが表情に出ていたのか。雷禅ははっとした表情になって慌てた。

「あっいや、その……本当に何でもないんです。琥琅が急に手を当ててくるから驚いただけで。本当に熱はないんですよ。……ほら」

 琥琅の手をとり、雷禅は自分の額に押し当てる。束の間だけ感じられた熱が再び手に宿る。

 雷禅の顔はまだ赤い。いや、さっきよりもっと赤くなっている。けれど病によるもののようには思えなかった。病なら、こんなに急に赤くならないはずだ。

 それでもまだ、琥琅は心配だった。

「大丈夫?」

「大丈夫です。だからほら、行きましょう」

「でも」

「大丈夫ですってば!」

 やっぱりやめた方がいいのではないだろうか。そう言おうとして、けれど馬を出す雷禅の赤い横顔を見つめ、言葉が喉の奥で止まる。

 たまらず、といったふうで、琥琅と雷禅の隣から生臭い息が吐き出された。

〈……甘麗さん、これ、笑っていいですよね? 笑うしかないですよね?〉

〈間違いなくな。だが、この二人だから仕方ない〉

「そこ、うるさいですよ」

「あらあら、なんだか楽しそうね、二人とも」

 わけのわからない会話をしている二頭を雷禅が睨んだそのとき、笑み混じりの涼しげな声がそう、二頭と一人の会話を表現した。

 琥琅は目を瞬かせ、声がしたほうを振り向いた。

 玄関のほうからやってきたのは、優しく包み込むような雰囲気をまとった、たおやかな女性だった。簡素に結い上げた薄い色の金髪、蒼穹を切り取ったように澄み渡る鮮やかな青の瞳。落ち着いた色合いが美しい衣と、耳や髪を飾る小さな宝石が色彩豊かな外見にさらなる色を添えている。‘人虎’“虎姫こき”と人間にも獣にも恐れられる琥琅と違って、柔らかく優しいものだけで形作られているかのようだ。

 雷禅の義母であり、この綜家の女主人たる女性、綜霞彩かさい。琥琅にとっては、義理の叔母にあたる女性だ。

 義理の母親の登場に、雷禅は何故か片頬を引きつらせた。

義母上ははうえ、なんでここにいるんですか」

「あら、見送りに決まってるじゃない」

「見送りって、他の城市まちへ商談に行くわけじゃないんですから」

「だって、義息子むすこ義姪めいが出かけるんですもの。義母ははとして義伯母おばとして、見送るのは当然じゃないかしら?」

 と、霞彩は小首を傾げてみせる。合っているような合っていないような言葉。悪戯そうな笑み。

 雷禅は憮然としたように言う。

「夜には帰ってきますので、ご心配なく」

「そんな、夜までだなんて、明日の朝に帰ってきてもいいのよ?」

「夜に帰ってきます」

 即座に雷禅は返す。むきになった顔は、まるで街角で見た幼い子供だ。

 琥琅は、ぐ、と拳を握った。

 不思議なことに、雷禅は霞彩に対してはこんな表情をする。瓊洵けいじゅん――琥琅の義父にして雷禅の義理の叔父たる男にもたまに見せるが、霞彩に対してのほうが多い。というより、より感情の動きが激しい気がする。

 くすくすと笑い、霞彩は琥琅のほうを向いた。二人分のお手製弁当を持たせてくれる。

「せっかく二人で出かけるのだから、ゆっくりしてらっしゃい。雷禅の仕事のことなんて、気にしなくていいから。そうね、いっそのこそ、朝まで一緒にいたいっておねだりすればいいわ。雷禅は貴方に弱いから、きっと聞いてくれるわ」

「義母上!」

 雷禅がうろたえれば、霞彩はまた面白そうに笑う。雷禅がうろたえる姿は貴重だ。

「~~っいってきますっ」

 顔を真っ赤にした雷禅はぷいと顔を背けると、裏口があるほうへ一目散に逃げだした。甘麗と遼寧どころか琥琅のほうさえ見もしない。脱兎の如く、という表現がぴたりとくる逃げっぷりである。

 遼寧の馬鹿笑いと霞彩の鈴を転がすような笑い声が、庭院の片隅に落ちた。

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