光を見つけに ―清国虎姫伝 番外―

星 霄華

星満ちる洞

星満ちる洞・一

 しん国西方にある大交易都市・彗華すいかの一等地に居を構える商家・そう家の邸の庭院にわはとても広い。何せ綜家は、何代にも渡って西域交易を牽引してきた商人の名家である。それに当代の当主である璃珀りはくは、稀に見る商才を持つといわれる傑物で、こんな辺境の地にいながら、国でも指折りの大商人の一人に数えられているのだ。その繁栄を表すかのように、庭院は彗華一ともいわれる素晴らしさなのであった。

 その片隅にあるあずまやで、綜家の跡取りの綜雷禅らいぜんは、義理の従姉妹である琥琅ころうの勉強を見てやっていた。

 養母の遺言に従い西域辺境をさまよっていた琥琅を荒野で拾ったときから、雷禅は彼女の身の回りのことを世話してやったりすることが多かった。その稀有な境遇から人間としての在り方を忘れ、人間を同族と認めることができない彼女が心を許し、従順になるのは雷禅だけだったからだ。そのためか、琥琅が人間らしい生活を送れるようになり、西域府君が更迭されて彗華へ戻ってきた今でも、こうして教育係の真似事をさせられることがごくたまにあるのだった。

「雷、できた」

 さっきまでぱちぱちと鳴っていた音が止み、やや低めのえもいわれぬ美声が雷禅を呼んだ。雷禅が帳簿から顔を上げれば、恐ろしく整った顔立ちの娘が無表情にこちらを見ている。

 雷禅は差し出された紙を受け取り、踊る数字に目を通した。算盤をそばに置き、指を置く。

「――これは正解。こっちは間違い。ここからここまでは合ってますね。これも合ってます。これとこれは間違いで、これは――合ってますね」

 と、ほとんど暗算、ところどころで算盤を弾きつつ、朱で次々と答え合わせをしていく。耳に快い音の連なり。

 常日頃の奇矯な素行で誤解しやすいが、琥琅は実はかなり頭がよい。というより要領がよく、少し学んでこつを覚えるだけで、大抵のことはこなせるようになるのだ。裁縫も料理もすぐに覚え、飲み込みが速いと雷禅の義母がとても喜んでいた。この算盤の練習とて、二十日ほど前に始めたばかりだというのに、もうすっかり慣れた手つきだ。――――もっとも、当人はどれにもまったくもって興味を示していないのだが。

 全部採点し終え、雷禅は算盤を弾く手を止めて筆を置いた。正答率はかなり高い。八割近く合っている。

「合格です。よく頑張りました。間違ったところはあとで直すことにして、このあたりで休憩にしましょうか」

 雷禅が微笑むと、琥琅の空気がわずかに緩んだものになる。書院通いの子供が先生に褒められたときのような反応。思わず苦笑してしまう。欄干に止まる天華も微笑ましそうだ。

 使用人に茶器を用意してもらい、優雅にくつろぐ。風が緩く頬を撫ぜる昼下がり。空は雲ひとつなく、瑠璃を砕いた絵具で塗りたくったようにどこまでも青く澄み渡っている。西域辺境ではたまに砂塵が起こったりするのだが、今日は運がいい。砂塵が起きると、時間を置いて庭院や屋根、道路が大量の砂でとんでもないことになるのだ。もちろん緑地化を推し進めたり過度の耕作を禁じたりするなどの対策はされているが、所詮は人間の小細工に過ぎない。

 琥琅は唐突に、亭の柱に立てかけていた鳳首箜篌を膝に立て、奏でだした。柔らかな絹の音が、ゆったりと場に広がっては空に吸われていく。

 雷禅は目を閉じ、音色に耳を澄ませた。

 嗜みとして横笛を習った程度の雷禅であるが、隊商で学び始めて瞬く間に楽師顔負けとなった彼女の腕には感服している。特に、その音色が好きだ。絹糸を弾く柔らかさの中にある、雪消水のように清冽かつ冷ややかで穢れなく、他者もいかなる汚れもすべて拒むかのような、そう、琥琅の性質そのものの音だ。孤高という言葉がしっくりくる音色。耳に心地よく、聴いているだけで嫌なことも暗い気持ちも洗い流してくれるようで、聞き惚れる。

 妙なる旋律に紛れるようにして、かすかに人の気配がした。そちらにつと目を向けてみると、うなじのあたりでゆるく髪を束ねた、整った顔立ちの長身痩躯の青年がいた。

 三十路を過ぎたばかりの年若い綜家の当主。雷禅の義父たる綜璃珀だ。

 義父は足音を立てずにこちらへ近づいてくる。それと前後して、『蒼河遥』――大河を下る旅人の旅情を綴った曲――が終わった。

 璃珀は、義姪に惜しみない賛辞を贈った。義理の伯父の姿を見ても、琥琅はさして驚いたようではない。弾いているとき、既に気づいていたのだろう。

「見事だな。さすが、陽明が褒めていただけのことはある」

「……いっぱい練習したから……」

 琥琅はぽつりと呟くように返す。先ほどまでのどこか和んだ表情と空気はどこへやら、くつろぐ獣の無関心が覆う。

 とはいえ、これでも琥琅を拾った頃に比べれば、随分ましになったほうなのだ。こうして雷禅や義叔父おじ以外の、それもそれほど交流しているわけではない人間に対しても答えを返している。

 今は雷禅に躾けられたからという面が強いだろうが、雷禅にとっては義父も琥琅も家族なのだ。時間がかかってもいいから馴染んでほしい。雷禅はそう願ってやまない。

義父上ちちうえ、何かご用でしょうか」

「いや、仕事がひと段落したから、鳳首箜篌の音に誘われてきただけだ。――すまないな」

「いえいえ」

 雷禅は養父に席を勧めると、さっそく茶を杯に注いだ。

 普段は仕事に割と余裕のある義父だが、最近は多忙だ。そろそろ交易の季節になるため、西域府君代行から交易権を購ったり、交易品の選定をしたりでばたばたしている。雷禅もその手伝いで忙しかったのだが、こうして呑気な時間を過ごせるのはひとえに義母の気遣い――もとい企みによるものだった。

 義父は卓子の隅に置かれた道具を見やった。

「算盤の練習を見てやっていたのか」

「はい。義母上ははうえに言われまして」

「またか」

「ええ。まあ、僕も手が空いてましたし。あと帳簿づけは終わりました」

 と、義父と二人して苦笑しつつ、雷禅は帳簿を義父に手渡した。今朝は、先月分の帳簿を頼まれていたのだ。

 義父と琥琅と三人でのんびり過ごすのは初めてのことだ。どうせなら義母を呼ぼうと雷禅は考えたが、義母はどこかの奥方に誘われて外出したのを思い出し、諦める。それによく考えれば、義父は妻に甘いのである。

 茶を口にしながら、義父は言う。

「それで雷禅、あのことを琥琅に言ったのか」

 その一言に、雷禅はぎしと固まった。

「……まだです」

「? 雷?」

 琥琅は目を瞬かせた。が、雷禅はすぐに反応できなかった。

 実はさっきから、雷禅はそのことを言おうと思っていたのだ。だが折悪く義父がやってきたために、どうしたものかと思案していたのである。いくら先日願いでたばかりとはいえ、義父の前で言うのも恥ずかしい。

 そんな雷禅を面白げに見ていた義父は、不意にくつくつと喉を鳴らした。

「どうやら私は邪魔のようだな。仕事に戻るとしよう」

 と、茶を飲み干して立ち上がる。元気づけてくれるかのように雷禅の頭をぽんぽんと撫でると、雷禅が止めようとするのも聞かず、さっさと母屋のほうへ行ってしまった。

 もしかして、義息子むすこをからかうために来たのだろうか。雷禅はふとそんなことを思った。だとしたら嫌すぎる。さすが義叔父の異母兄というか義母の夫だ。

 でもまあ、先日義父がくれると言った休日まであと数日しかないのだ。さっさと言っておくに限る。

 何だかこそばゆい気持ちで頬を掻きつつ、雷禅は口を開いた。

「えと、琥琅、三日後の午後は暇ですか」

 琥琅はこくんと頷いた。

「老師、用事入った。修行ない」

「……」

 雷禅は遠い目をしたくなった。やっぱり、という気持ちと虚脱感で長息がこぼれる。

 琥琅に勉学を教えている楊修安老師は、綜家の客人である。もう七十近い高齢の学識高い人物で、地方官吏の職を辞して田舎で隠居していたところを十年近く前に、義父が伝手を使って招き、雷禅の家庭教師にしたのだ。少し前からは綜家が開いた書院で教鞭をとる傍らで、琥琅に学問を教えている。温和で優しく、思慮深い人柄だからか、琥琅も彼には少しずつ心を開きはじめているようだった。

 あの賢者はその深い見識ゆえに、彗華の知識人や組合の重鎮たちに知恵を貸してくれと請われることがよくある。とはいえ、こうも雷禅にとって都合よく用事が入ったとなると、方便かと疑いたくなる。というか、これも義母の仕業のように思えてならない。

 こうなることは薄々予測していたが、こうも義母の根回しの速さを目の当たりにすると、何だか複雑である。ありがたく思っていいのか、呆れるべきなのか。

 せっかくの逢瀬なんだから何泊でもしてきたらいいのにと、それはもう楽しそうに嬉しそうにしている義母と、愛妻の喜びようを見て呆れながらも何も言わない義父、にまにま笑う義叔父の姿が目に浮かぶ。ほけほけ笑っている楊老師や微笑ましそうにする古参の使用人たちまで、ありありと想像できる。

 こうなったらもう開き直るしかない。雷禅は気を取り直した。

祁環きかん山の奥に、星天石が一面に埋まった洞窟があるそうなんです。最近になって、老師が他の人たちと一緒に見つけたそうでして。僕、三日後に休みをもらってますから行こうと思うんですけど、琥琅も一緒に行きませんか?」

 どうにか言いきって、雷禅はほう、と息をついた。誘うだけなのに何故か緊張する。

 琥琅の瞳に戸惑いが浮かんだ。

「……雷と、二人だけ?」

「ええ。義父上たちは忙しいようですから」

「天華もいない?」

「いませんよ」

 というより、雷禅は二人きりで行きたいのだ。それに間違いなく、義叔父も義母も、二人きりでいってらっしゃいと笑顔で見送ってくれる。義父や修安、天華も多分そうする。

 だがそんなことを琥琅が理解してくれるはずもないので、皆と一緒に行きたいとごねるかもしれない。もしそうならどう言い訳しようか。雷禅が悩んだ矢先だった。

「……行く」

 ぽつりとこぼれた言葉と表情に、雷禅は硬直した。

 以前と比べて、琥琅は随分と表情豊かになった。なったが、それは彼女の世話係をしていたからわかる程度の変化で、誰にでもわかるような表情の変化はまだほとんどない。通訳兼世話係と自他ともに認める雷禅でも、彼女の微笑みを見たことは数えるほどだった。

 琥琅が今浮かべているのは、その貴重な微笑みだった。

 雷禅の頭の中は真っ白になった。琥琅が何か言っていたが、どこか遠いところから聞こえてくるようだった。

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